第51話 おかえり、ハンナ。ただいま、世界。

 それからほどなくして、ぼくとハンナは必要なものを揃えてから、最寄の河原に向かうことにした。夜はまだ明け切っていないが、かすかに黎明れいめいの兆しが空に浮かんでいる。そこここに雪の溶け残っている通りは閑散かんさんとしていて、一日はまだ始まっていない。

 半ばまで歩いたところで、ハンナがぼくの首筋に鼻を寄せた。急に何をするのかと少しうろたえた。ハンナの獣耳が鼻先をさすり、むずがゆい。

 ほのかに彼女特有の甘酸っぱい匂いがした。ぼくは目の覚めるような気分だった。

「……久しぶりに、あなたの匂いがむんむんする」

 むんむんとは。

「うん。ハンナからもハンナの匂いがしてる」

 ぼくはふと、ぼくたち二人の足元に視線を移す。影が喪われていたはずの場所に、うっすらと藍色の気配が兆している。

 ぼくたちの影が戻り始めているのだ。そう思った。


 河川敷にたどり着くと、ぼくは手元のバッグから折りたたみ式の焚き火台を取り出した。はじめはマンションの屋上で燃やそうかとも思ったが、誰かが火事と勘違いしないとも限らない。たかが本一冊とは言え、面倒なことは極力避けたい気持ちがあった。

 ぼくは焚き火台を組み立て終えると、狐少年の影を収めた本を取り出した。軽く中身をぺらぺらとめくってみる。全てのページが塗りつぶされたように真っ黒だ。そこには意味を通わせる記号もなく、いかなる意味での言葉もなかった。呼びかける声に、こたえる者はなかった。

 まるでにえの羊を祭壇さいだんに捧げるように、ぼくは焚き火台の上にそっと本をのせる。

「ハンナ、火を点けるよ」

 ポケットから取り出したライターを手に振り返る。ハンナが頷いた。

「……うん」

 火を点けた本は、思いのほか勢いよく燃え上がった。念のために着火剤も持って来ていたが、この分なら必要なさそうだ。

 火はページからページへと燃え移り、自らの火で自らを燃え崩れさせている。

 薄い煙が明け方の空をゆっくりと立ち昇った。風はなかったので、まっすぐに煙は空を目指していた。

 まるで火葬のようだ、とぼくは思った。幼い頃に亡くなった父の葬式のことなどが心に浮かんでは消えた。時々、燃え残らないように細い枝で本を動かしたりした。視界が涙でにじんでいたのは、煙のせいだけではなかったと思う。



   〇



 本は跡形もなく燃え尽きて、真っ白な灰になった。あんなに真っ黒なページばかりだったのに、こんなに真っ白な灰ばかりが残ったのだ。それがぼくにはふしぎだった。

 ぼくは焚き火台の上に残った灰をかき集め、あらかじめ持参していた耐火バッグの中に入れた。目の前の川に流してしまおうかとも考えたが、なぜかそれはためらわれた。かと言って生ゴミで出すのも違う気がした。この灰には、もっとふさわしい行き場所があるような気がする。

 何はともあれ、これで狐少年との約束を果たせたのだ。ぼくは心の中で狐少年の面影に呼びかけた。これでもう君の影は、君を追いかけることはないだろう。

 それと同時に、ぼくたちはもう狐少年に会えなくなってしまった。それがたまらなく悲しかった。

 抑えていた感情がせきを切ったように溢れ出し、ぼくは涙が止まらなかった。

 気がつくと、ぼくは同じように泣きじゃくるハンナの両腕に抱きしめられていた。ぼくたちは子どもの頃に戻ったように泣き続けた。いくつもの涙が頬を伝い、ハンナの尻尾にこぼれた。

 土手の上をいくつかの人影がまばらに通り過ぎているのが見えた。

 東の空が次第に明るみを増していく。太陽のかけらが覗いた。長かった夜が終わり、ようやく一日がはじまるのだ。

 ぼくはその時、ぼくたちの座り込む大地に、ぼくたち自身の影がはっきりと映り込んでいることに気付いた。ぼくは顔を上げ、ハンナの顔に眼差しを注ぐ。

「ハンナ、おかえり」

 涙をぬぐった笑顔で、彼女はこう応えた。

「ただいま」


 おかえり、ハンナ。ただいま、世界。

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