第50話 ロールシャッハテストのインクのしみ
ドアノブはこともなげに回った。おそるおそる力を込めると、無機的な音を立てながら扉が徐々に開く。暖かい部屋に冷気が流れ込むのを感じた。
細い隙間から見えるマンションの廊下を、ぼくは息を
いつの間にか、背後の狐少年がいなくなっているということは、ぼくより先にハンナが気付いた。
ぼくは二、三度ほど扉の開け閉めをしてみたが、やはり狐少年はどこにも見当たらなくなっていた。ということは、ここは「元の世界」ということになるのだろうか。試しに自分のスマホを取り出してみると、身に覚えのない通知が大量に届いていた。さゆり姉やすみれちゃんからのものが大半だ。
液晶画面に、時刻は朝の四時半と表示されている。ぼくはここが「元の世界」であることを確信した。スマホを元通りポケットに収める。内容を
ハンナは鼻を押さえているが、それほど苦しそうな様子はない。
「部屋の中から『あの匂い』が漂って来てる。でも、そんなに強い匂いじゃない」
ぼくは迷わずに、暗い部屋の中に踏み込んだ。さっきまではあんなに暖かな室温だったのに、今はひんやりと寒い。
ぼくは蛍光灯のスイッチをオンにする。キッチンの空間が明かりで満たされると、あまりにあっけなく「そいつ」は見つかった。
「これが……」
照明を浴びたフローリングの中央は、明らかに異質なモノで占められていた。一面に墨汁を不均等に撒き散らしたかのような形のそれは、得体の知れない
呆然と眺めていると、影のそこかしこがまるで心臓の鼓動のように、不規則に脈打ってるのがわかった。ぼくは鳥肌の立つ思いだった。この影は生きているのだ。
ぼくは
だが、影は刻一刻と形を変えるので、その
何度かのトライアルアンドエラーを繰り返し、ぼくはふとこう思った。この影は生きたがっている。こんな姿になってまで、この影は生きたがっているのだと。
そう考えると、とたんにこの禍々しい影が、弱々しく、哀れなものに思えてきた。かなり弱っているようだし、このまま放置していても、遠からず死に絶えるのではないか。そんな考えも頭に浮かんだ。
けれどもぼくは、そんな考えを振り払うようにゆっくりと立ち上がり、シャツの内側に入れてあった軍用拳銃を取り出す。そのごつごつとした冷たさと重さは、触れるもの全てを拒絶するような質感をぼくに感じさせた。
ぼくは影に向かって照準を定める。
すると、背後にいたハンナが、ぼくの背中にそっと手を触れた。ぼくの背中は彼女の手のひらの温もりを感じた。それと同時に、彼女の言葉にならない悲しさがぼくの皮膚を通して、形のないぼくの心に染み入ってくるような心地を覚えた。
「……ごめんハンナ、これはやらないといけないことなんだ」
ハンナの吐息が背に温かい。
「うん……わかってる。あの人も……お父さんもそれを望んでいたものね」
「……」
「だから……私も手伝う。あなた一人には背負わせない」
背後から抱きつく形で、彼女の手がぼくの手に重なる。ぼくは無言で頷いた。
影はなおも弱々しい鼓動を打っている。ぼくはその禍々しい虚無の奥に、名前のない狐少年が生きた日々を思いやった。理不尽な運命と悪意の
別れの言葉はなかった。ぼくはただ忘れまいと心に誓った。たとえ世界中の人が君を忘れたとしても、ぼくは決して君のことを忘れない。君が精いっぱいに生きた日々のことを。君がたしかに「そこ」にいたことを。今も「そこ」にいるということを。
ぼくは引き
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