ただいま、せかい。

第49話 結婚するまではコンドームを

 それから狐少年は、ぼくとハンナを玄関まで誘導した。元の世界への入口は、そこにあると言う。

「ごく普通にここのドアを開ければいいんだ。そうすればお兄さんとハンナは元の世界に帰ることが出来る」

 その説明を聞いて、ぼくは逆に不安になった。そんな簡単なことで戻ることが出来るのだろうか。第一、ドアならここに来るまでにいくつも開けたり閉めたりした筈だ。

「不安に思うのはもっともだよ。でも大丈夫。お兄さんとハンナがここに来てから現在までの間に、この部屋のこの玄関が通路になるように調整しておいたから」

「調整?」

「そう、調整」

 狐少年は頷いた。「数千万回に一回の確率でしか出ない通路なんだけどね。それがたまたま次に出るようにしておいたんだ」

 ぼくはその天文学的な数字やそもそもの原理を、どう捉えれば良いのか、しばらく言葉が出て来なかった。

 ハンナは自分の影を収めた本を、大事そうに両手で握っている。


 いよいよ玄関のドアノブを握ろうとする前に、ぼくは一つのことを狐少年に訊ねた。これが最後の別れになるかも知れないと思ったら、唐突に思い出したことがあったのだ。

「十数年前、この『影の世界』に迷い込んだ女性がいるはずなんだけど」

 名はあずさ。「影はがし」の研究施設に所属していた女性で、主任研究員の桔梗さんの伴侶はんりょになる。奇病が流行した初期段階で、世界から消失した人だ。

 狐少年は首を傾げた。

「……残念だけど、その頃の私は影と切り離されて『元の世界』を放浪していたからね。よくわからないよ」

「この『影の世界』でその人を見つけたら、ぜひ戻してやってくれないかな。彼女を待ってる人もいるんだ」

 ぼくがそう言うが、彼は戸惑っている。

「それは構わないけど、多分それは無理だと思うよ。だってこの『影の世界』には、私とお兄さん、それからハンナ以外に生きている人間は誰もいないはずなんだ。いない人間を戻すことは神様でも出来ない」

 その答えに、ぼくも戸惑ってしまう。これはいったい、どういうことだろう。


 少しの沈黙のあと、唐突にハンナが言葉を発した。

「『王の影』を継承したら……、私は何をすればいい?」

 彼女の視線は、まっすぐに狐少年の方を向いていた。

「……君のやりたいようにやるといいよ、ハンナ」

 そう言う狐少年の声は優しかった。「『王の影』を継承したからと言って、何かが劇的に変わるわけじゃない。君はその能力ちからを使うことも出来るし、使わないままでもいられる。あるいはもっと違ったやり方があるかも知れない。君はただ、君が幸せであるために必要なことを行えばいいんだ」

「あなたは……それでいいの? あなたは……幸せになりたくないの?」

「私は十分幸せだったよ。それに、あの人に……こずえさんに……、私は何もしてあげられなかった。君にも、沢山の寂しい思いをさせてしまった。罪滅ぼしと言ったらあれだけど、せめて少しでも君の力になれるんだったら、親としてこれ以上嬉しいことはないんだ」

 俯いたハンナの頭に、彼がそっと手を添える。「短い時間だったけど、君に会えて良かった。この『影の世界』から離れてしまえば、きっと君たちは私のことを少しずつ忘れてしまうと思う。それでも、私はずっと君たちのことを、ハンナのことを見守っているから」

「私は……忘れない」

 ハンナの頬に、一滴ひとしずくの涙が伝っていた。「あなたがここにいたことを」



   〇



 ぼくはハンナの手を握り、もう片方の手でドアノブを握る。ひんやりと冷たい、金属の質感。

 背後で狐少年が、ぼくたちの出発を促した。

「さあ、そろそろ行かないと、私の影が目を覚ましてしまう。君たちの未来の為にも、確実に私の影を仕留めて欲しい。よろしく頼んだよ、お兄さん」

 ぼくは振り返った。そこには笑顔の狐少年がいた。ぼくは頷いた。

「自信はないけど、出来るだけやってみるよ」

「お兄さんなら大丈夫だよ。それと最後に一つだけお願いがあるんだけど、いい?」

「何?」

「やるなとは言わないけど、結婚するまではコンドームを付けるようにね」

「……」

 ハンナは何のことかよくわかってないようだった。



 呼吸をゆっくりと落ち着けてから、ぼくはかすかに汗ばむ手で、ドアノブを回した……。

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