第48話 影が私のあとを追って来ないように

「どうして……君は戻らないんだ?」

 ぼくは狐少年にそう訊いた。彼は微笑みながら答える。

「私が元の世界に戻ることはもちろん可能だよ。でもそうするとまた同じことが起きてしまう。私の影がまた私を見つけてしまう。暗い記憶が私を駆り立てて、同じように世界を終わらせようとしてしまう。私はそれを望まないし、誰もそんなことを望んでいない」

 ぼくの隣で黙ったまま紅茶を飲んでいたハンナが、手を止めて話に聞き入っている。

 狐少年は話し続ける。

「かと言って、このまま影を野放しにしておくわけには行かない。あの影は自分の意思を持ち始めている。勝手にいろんな人たちを巻き込んだり、操ったりしている。まだまだ未分化みぶんかな意思ではあるけれど、意思であることに変わりはない。このまま放っておくと、どんなことになるかわからない」

 だから、と前置きして、狐少年はこう言った。「私は、私の影を永久に消し去ってしまいたいんだ。影が私のあとを追って来ないようにするために。……昔の詩人が似たようなことを言ってたけど、まさかそれを自分が実行することになるとは思わなかったな」

 彼は苦笑いしながら、一人で食べ尽くしたポテトチップスの袋を丁寧に折り畳み、きれいに結んだ。


 しばらくして、ハンナが初めて狐少年に語りかけた。

「あなたは……自分の影を消すことが出来るの?」

 狐少年は首を振った。

「残念だけど、自分ではどうすることも出来ない。さっきも話したように、あいつは自分の意思を持ち始めている。それは多分不可逆的なものだから、なかったことにすることも不可能だ。仮に私が自殺をしたとしても、その傾向は変わらない。影はまるでそのことも取るに足らない出来事であったかのようにふるまうと思う」

 では、どうすれば良いのか。

「幸い、あいつは元の世界のこの部屋にいるはずなんだ。そしてだいぶ弱っている。弱った影は影でも何でもない。ただの黒く薄っぺらい『何か』に過ぎない」

 狐少年が意味ありげにぼくの方を見る。ぼくはその視線に込められた意図を察する。

「……ぼくが『影はがし』をする、ということ?」

「そう。これはお兄さんにしか出来ないことなんだよ」

 ぼくは自分の手のひらを眺めた。ぼくにしか出来ないこと。



   〇



 中身を飲み終えたマグカップを片付けながら、狐少年がぼくに説明する。

「弱った影をはがし終えたら、お兄さんがいつもやっているように白紙の本に収めれば良いと思う。後はその本を燃やしてくれれば、影はこの世から永久に消えることになる」

 ぼくは不安げに頷いた。

「やり方はわかった。でも本当にうまく行くのかな?」

「影はだいぶ弱っているけど、はがす直前に必死で抵抗するかも知れない。その時は、何かで強い力を加えれば一時的に大人しくなる、と思う」

 まるで野生の獣か魚みたいだな、と思った。

鈍器どんきで叩くとか?」

「それもいいけど、お兄さんはもっと効果的なものを持ってるんじゃない? どうしてそんな物騒なものを持ってるのか知らないけどさ」

 ぼくはシャツの内側に潜ませた軍用拳銃の存在を思い出す。それと同時に、狐少年がそのことを見透かしていたことに対して、何となくばつの悪い感じになった。

「……まさか、君の影を撃つために使うことになるとは思わなかったよ」

 狐少年は洗い終わったマグカップの水滴を布巾でぬぐい、戸棚に納めた。

「……使わないで済めばそれに越したことはないんだろうけどね。何と言っても自分の影が撃たれるのを想像するのは、あまり良い気分じゃないよ」

 彼はしんみりとした口調で、そう言った。

 ハンナは窓際で、外に降る雪を眺めながら、出発を待ち構えている。


 ハンナと二人で元の世界に戻る前に、ぼくはもう一度狐少年に訊ねてみた。しかし、たとえ影が消え去ったとしても、やはり彼はもう戻れないらしい。

「影がこの世からなくなってしまえば、もう私はここから出られなくなる。この『影の世界』でしか生きられなくなる。死ぬわけじゃないけど、多分もう会えないだろうね」

 寂しげにそうつぶやく彼に、ぼくは何と言えば良いのかわからなかった。

 彼にうながされ、ぼくは彼と手を握り交わした。小さな手だった。柔らかな手だった。ぼくはそのぬくもりを手に感じ、どうしようもなく悲しくなった。この期に及んで、どうしてぼくはまだ彼の名を思い出せないのか。

 横でハンナは無言のままだった。何を口にすれば良いのか、計りかねてるようにも見えた。

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