第47話 『ぼくたち』の中に、私は含まれない

 ぼくの警戒心はなかなか解けなかったが、最終的にぼくたちは狐少年との話し合いに応じる形になった。理由の一つとしては、ハンナがそれを望んだということが挙げられる。

 蛍光灯の明るい光が点っているキッチンで、ハンナはごく自然にマスクを外した。そして不思議そうに深呼吸をする。

「……外ではあれだけ嫌な臭いだったのに……」

 彼女の見立てでは、少なくともこの部屋の内部に『よくないもの』の気配はないらしい。

 テーブルの上に置かれている三つのマグカップからは、淹れたての紅茶がほのかな湯気を立てている。椅子に座ったままのぼくとハンナを尻目に、台所では忙しそうに狐少年が何かを探していた。

「お兄さん、あのポテトチップスはどこだったかな? 確かこの辺にあったと思うんだけど」

 ぼくは先日購入したばかりのポテトチップスの在りかを思い浮かべ、その保管場所を簡潔に回答した。そういえば、そのポテトチップスは他でもない狐少年のリクエストで買ったものであることを、今さらのように思い出した。

 そんなどうでも良いことは思い出せるのに、やはり狐少年の名前を、ぼくは思い出せない。



   〇



「どこから話し始めればいいんだろう」

 パーティー開けにしたポテトチップスを一人でつまみながら、狐少年はそう呟いた。「話さなければならないことは沢山あるはずなんだけど」

「君は……世界を終わらせると言ってた。本気だったの?」

 ぼくは彼の淹れた紅茶をひと口すする。底の方に溶け残った砂糖が沈殿ちんでんしていて、甘ったるかった。

「……そんな中二っぽいことを言ったね。もちろん本気だったよ」

 苦笑しながら、名前のない狐少年は過去形で答える。その時、ぼくは狐少年にどうやら影がないらしいことに気付いた。

 ハンナは黙ったまま、ちびりちびりと紅茶を飲んでいる。


「……はじめは本当に世界を終わらせようとしていたし、本気でお兄さんとハンナの邪魔をしようとしていた。この雪を降らせたのも私だよ。ここまで来るのに苦労したでしょ。ごめんね」

 いくぶん冗談めかした言い方ではあったが、彼の目は真面目だった。

 ぼくが何と答えるべきか迷っていると、狐少年は続けて言う。

「私がここに来たのは、ハンナの影をこの世から消し去るためだったんだ。そうすれば、ハンナは世界が終わったとしても影の中で生き続けることが可能だし、私が王のままで居続けることも出来る。だから『はがさず教』の男たちを操って、ここまで連れて来てもらった。途中、雪でスリップして事故ったりするトラブルもあったけど、おおむね計画通りに進行した。お兄さんにハンナの影を収めた本も見せてもらったことがあったから、探すのもそれほど手間はなかった」

 狐少年はふところから一冊の本を取り出してテーブルの上に置いた。目の前に差し出されたその本は間違いなくくだんの本だった。心なしか、表面がかすかに茶色く焦げたようになっている。

 ぼくはその本を手に取りぱらぱらとめくってみた。全てのページが墨で塗りつぶされたように真っ黒だった。以前と変わりのない状態だ。

「実はその本をそこのガスコンロで焼こうとしたんだよ。でも思うように行かなかった。どう言えば良いのかわからないけど、本当に思うように行かなかったんだ。もしかすると本の中の影が必死に抵抗していたのかも知れないし、あるいはもう王の影がハンナに移行しつつあったのかも知れない。それはともかく、私は本を燃やすことが出来なかった」

 ぼくは隣のハンナに促され、その本を手渡した。ハンナは不思議そうにページをめくり、自分の影を眺めている。

 狐少年は最後のポテトチップスを口元に運び終えてから、また喋り始めた。

「それから私は自分が自分でなくなるような気分を味わった。朦朧もうろうとした意識の中で、影が自分から遠ざかっていくような感じだった。次第に影は私の意図しない動きを勝手に舞い始め、気がつくと、私は一人で『王の影』の世界に放り込まれていた。何が起こったのかよくわからないけど、ご覧の通り今の私に影はない。世界を終わらせたいとも思っていない」

 しばらく無言の間をおいて、狐少年がマグカップの紅茶を飲み干してから、ぼくは訊いてみた。

「ぼくたちは……どうやったら元の世界に戻れるんだろう?」

 彼は少し目を伏せてから、顔を上げて、こう言った。

「お兄さんとハンナは戻れるよ。その方法はこれから教える。けれども、私は戻るわけには行かない。『ぼくたち』の中に私が含まれることはない。私はこのままここに残る」

 ぼくは目を見開いて、何かを決意したような狐少年の顔を見た。

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