銃と紅茶と狐少年
第46話 お帰りなさい、お兄さん
苦労して雪を掻き分けながら進み、ようやくぼくらの住むマンションが見えた。
ハンナは相変わらずきつそうな様子ではあったが、足取りは次第にしっかりとしたものに戻りつつあった。二重マスクに隠れてはいるが、顔色も普段のようにほんのりと
「……臭いは強くなっているけど、さっきのように苦しくはない」
慣れたのかも、と彼女が付け加える。何にせよいい傾向だとぼくは思う。
「ハンナ、その臭いはどの方角のものかわかる?」
ぼくがそう訊くと、彼女は間髪いれず即答した。
「あの曲がり角の向こう側から、いちばん強く漂って来てる。多分、私たちの家の方角」
ぼくはハンナの指差す方角に視線をうつす。ぼくにはやはりその臭いを感じることは出来ないが、何となく悪い予感のような気配が、行く先に垂れ込めているのを感じた。
何かを恐れるような心持ちで歩き、曲がり角を右に曲がる。
すると、妙な違和感がそこにあった。マンションの玄関口に雪が異様に盛り上がっている部分がある。
ぼくは警戒しながらおそるおそると近づいた。
半ばまで近づいたところで、その正体がそれとわかる。
中には誰もいないようだったが、フロントガラスが粉々にひび割れているのがわかった。どこかで事故にでもあったのだろうか。
ぼくはぼくの部屋のベランダを見上げた。あの廃墟からここまで、誰かがわざわざ来ている。
ぼくとハンナはマンションの階段をゆっくりと
「……やっぱりここから臭いがするのは確か」
ハンナの言葉に、ぼくは無言で頷く。あの狐少年がここにいると考えて良いだろう。
ふとシャツの内側に入れていた拳銃の存在を思い出した。上から手でなぞり、そのごつごつとした触感を確かめる。そうしながら、梢さんがぼくに託した願いを、頭の中で繰り返す。
ぼくはまだ実感が湧かなかった。ぼくはこれから何をしようとしているのだろう。ぼくは本当に狐少年を殺そうとしているのだろうか。本当に殺さなければならないのだろうか。
この期に及んで、まだ迷っている。
扉の前で立ち尽くしているぼくの顔を、ハンナが隣から覗き込んだ。
「何を考えてるの?」
ぼくはわれに返る。けれどもその問いに答えられない。そのかわり、ぼくはハンナにこう訊ねた。
「ハンナ、これからどうするのが正しいと思う?」
曖昧な訊ね方だった。ハンナはぼくの眼をまっすぐに見つめながら、その問いかけの意味するところを探っているかのようだった。そして。
「あなたが決めたことであるなら……、私はそれでいいと思う」
ハンナはぼくの心中を知ってか知らずか、そんな風に言った。
「ぼくは……特に何も決めているわけではないんだ。どうすればいいのか、まだ迷っている」
「私は、あなたが何をしようとしているのかよくわからない。私はただ、戻りたいと思ってる。あなたと暮らしていた世界に、一緒に帰りたいと思ってる。さゆりさんにも会いたいと思ってる。もっといろんなことをしてみたいと思ってる。あなたは……そうじゃないの?」
「もちろんぼくだって、そう思ってる」
ハンナがぼくの手を包むように握る。
「私は……あなたがどんな選択をしたとしても、あなたのそばにいる」
ぼくは震える手でドアノブを握った。深呼吸をして、回す。
鍵は開いていた。
〇
玄関は薄暗かったが、暖かかった。
しかしどういうことだろう。どうして外があんなに寒いのに、部屋の中がこんなに暖かいのだろう。まるで暖房でも点けているような暖かさだ。ぼくはまずそう感じた。
ぼくは靴を脱いで、部屋の中に踏み入る。かすかにキッチンの辺りから物音が聞こえた。どうやら灯りも点いているらしい。
息を殺しながら耳をそばだてていると、玄関とキッチンを区切る扉が唐突にひらかれた。ぼくは水を浴びたように驚いた。そこには紛れもなく、狐少年が立っていたからだ。
「お帰りなさい、お兄さん」
ぼくは思わず身構えたが、狐少年は邪気のまるでない笑顔でそこにいた。「外は寒かったでしょ。あたたかい紅茶も淹れたばかりだから、こっちで一緒に飲もうよ。話したいこともあるしさ。それと……」
狐少年はぼくの背後を覗き見るように首を動かした。そして、こう告げた。
「ようやく会えたね、ハンナ。待っていたよ」
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