第45話 あなたと離れたくない

 それからぼくとハンナはバスを後にした。

 雪は音もなく天から降りしきっている。街は凍えるような寒さだ。

『間借り男』は時折まなじりの涙をぬぐうような仕草をしつつ、バスの乗降口でいつまでもぼくらを見送っていた。振り返るたびに、車内の蛍光灯が点いたり消えたりしていた。



   〇



 一面の路上には、膝の辺りまで雪が積もっている。ぼくらはその雪をき分けるように、少しずつ歩き続けた。思ったほど前に進まないことに、かすかな焦りが生じる。

 さほど歩いてないというのに、もう息が切れ始めた。呼吸が苦しく、肺が痛い。

 そんなぼくの様子を見て、ハンナがいたわるように声をかける。

「大丈夫?」

「……何とか。ハンナは……平気そうだね?」

 振り向くと、ハンナは全く疲れているようには見えない。

「やっぱりこの世界では全く疲れないみたい。私が先に行って雪を掻き分ける。あなたはその後からついてきて」

 並び順を変えてみると、さきほどの倍近い速度で進めていることがわかった。ぼくは半ば呆然としながら、彼女の通った跡を子どものようにぽちぽちと辿る。ふさふさの尻尾に雪が細かくからみつき、何となくそれを見つめながら歩いた。

 辺りに人影はもちろんなく、走っている車もない。影の世界は死んだように静まり返っていて、ぼくらの進む音だけがこだまする。

 途中、無人のコンビニや公園の東屋あずまやでほどほどに休憩をはさみながら、ようやく最寄の駅までたどり着いた。ここまで来れば、ぼくたちの家まであとわずかだ。

 ハンナに異変が生じたのは、それから間もなくだった。


 雪を掻き分けながら歩くハンナの足取りが鈍くなったことに、まず気付いた。

「ハンナ、どうかした?」

 ぼくがそう声をかける。振り向いた彼女の顔は青白く、血の気が引いているようだった。

「……いやな臭いがどんどんきつくなっている。あの、廃墟で嗅いだのと……多分、同じ臭い……」

 ふらついたハンナが雪の中に倒れ込んだ。ぼくはあわてて彼女を抱き起こしながら、雪まみれになったその顔のおもてを払う。

「ハンナ!」

 ぐったりとした彼女を目の前の居酒屋『豆蔵』に運び込み、介抱する。途中、えずきながら胃の中のものを床に戻した。ぼくはその細い背中をさすりながら、彼女の言った言葉を思い返していた。いやな臭い。廃墟で嗅いだのと同じ臭い。

 ぼくの脳裏に狐少年の面影が、ひらめくように浮かんだ。彼が近くにいるのだろうか。


 ひとまず奥の個室の畳にハンナを寝かせると、大分落ち着いた感じにはなった。なるべく臭いを遮断するために、ふすまは閉めてある。

「……もう大丈夫。まだ臭いはするけど、外ほどじゃない」

 ぼくは厨房に置いてあったおしぼりで彼女の口を拭う。こんなに体調を崩しているハンナを見るのは初めてだった。

 それなのに、十分も経たないうちに起き上がろうとするハンナを、ぼくは押し止める。

「ハンナ、無理しないほうがいい」

 しかし彼女は首を振る。

「急がないと……手遅れになるような気がするの」

「なら君はここで休んでて。ぼくが君の影を取りに行くから」

「私もいっしょに行く。あなたと、離れたくない」

 ハンナの決心は固いように見えた。

 ぼくは居酒屋の店内を物色する。するとカウンターの内側に使い捨てのマスクが大量に置いてあるのを発見した。ぼくはその中から二枚ほど頂戴することにする。こんなもので臭いを防げるかどうかは疑問だが、無いよりはマシだろう。

「辛かったらすぐに言うんだよ」

 ぼくはハンナの口元にマスクを二枚重ねで着けてやる。ハンナはこくりと頷く。


 それからぼくらは互いに手を握りながら、ここから徒歩で五分の距離にあるマンションへと向かう。ぼくらの住む家を目指す。ハンナは気丈にふるまっているが、時折苦しそうに眉をしかめているようだった。確かに急いだほうがいいのかも知れない。雪もさらに勢いを増している。

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