第44話 あなたのおかげで、私たちはここにいる

 雪は収まる気配を見せなかった。


 バスの窓外はまたたく間に白いもので埋め尽くされ、一面の銀世界へと変貌へんぼうした。

「目的地まで走れそうですか?」

 ぼくが訊ねると、運転手の格好をしている『間借り男』は険しい顔つきになる。

「厳しいでござる。時節柄、一応冬用のタイヤを採用しておるものであるが、道そのものが通れなくなる可能性もあるゆえ」

 バスは幾度かスリップしかけながらも、法定速度をさらに下回る速さで徐行する。途中、都内へ向かう道が大量の積雪でふさがっていた。隣接する崖からなだれ込んだらしい。

 ぼくらを乗せたバスは迂回うかいに次ぐ迂回を強いられた。そうしているうちに、心なしか車内の空気が肌寒くなってきた。暖房が点いているはずなのに、吐く息が白い。

 ぼくはハンナに寒くないかと訊いた。

「私なら大丈夫。むしろあなたの方が心配」

 ハンナはふさふさの尻尾をぼくの首に巻きつける。ぼくは遠慮なくその温もりに顔を埋めた。指先を毛の中でこすらせるようにして暖めていると、付け根の方に引っかかったらしい。ハンナの体が跳ねるようにビクンと動いた。

「……そこは……敏感な所だから……気を、つけて」

 流石にぼくもいろいろ察して、少し気まずい雰囲気になる。何かをとがめるように、車内の蛍光灯が四度ほど点滅を繰り返した。


 バスはとうとう停車を余儀なくされた。



   〇



 不幸中の幸いというべきか、バスが停止したのは、都内のぼくの家から二駅も離れていない路上だった。

「バスで向かえるのはここまでであらん。後は徒歩かちにて往き給うがよかろう」

 ぼくは『間借り男』に礼を言う。それにしても、自動運転のこのバスでどんな仕事をしていたのだろう。けれどもそれは言わないでおくことにする。

「ありがとうございました」

「貴殿の目から見て、それがしは良き運転手であったろうか」

「とても良い運転手だったと思います」

 あたりさわりのない社交辞令は彼の機嫌を良くしたらしい。

「ハンナ嬢、元の世界に戻っても、時折はそれがしのことを思い出していただきたく候」

 ハンナはその言葉に反応せず、じっと『間借り男』を見つめている。そして、こんなことを言った。

「あなたは……、ここから、影の中から出て行かないの?」

『間借り男』は複雑そうな表情で首を振る。

「それがしは影の中に住まうことを余儀なくされた者に過ぎぬ。それ以上を望むは過分かぶんでござる」

 唐突にハンナは、しかしごく自然に、彼の手を取った。

「……」

「……いかが致したハンナ嬢。時は人を待たぬぞなもし」

「……私とお母さんが、ふたりきりでずっと暮らしていたあの場所、今考えるととても不思議な場所だった。毎日のように新鮮な食べ物が食べられて、燃料もないのに部屋の中は温かかった。それが当たり前のことではないと気付いたのはつい最近」

 ぼくはハンナの横顔を見ながら、彼女が喋るのを黙って聞いている。

「あの場所に漂っていた独特の匂い……、あなたに会って何となくわかった。あれは、ずっとあなたがしてくれていたことだったのね」

『間借り男』は居心地の悪そうに頭を掻いた。ぼくは何のことなのかをまだ飲み込めない。

 俯いたままの姿勢で、『間借り男』が静かに呟く。

「……梢どのの死を止めることは出来なかった。狐少年どのの影を隠し続けることは出来なかった。それがしの力及ばなかったことは山ほどござる。そのためにハンナ嬢や貴殿を危険な目に遭わせてしもうた。悔やんでも悔やみ切れぬであらん」

 ハンナは首を振る。

「……あなたのおかげで、私は生き延びることが出来た。あなたのおかげで、私は大事な人に会うことが出来た。あなたのおかげで、私たちはこうしてここにいる」

 ハンナが優しい声で、ゆっくりと語りかける。

「だから……そんなに自分を責めないで欲しい。あなたがここにいることを、私たちは、私たちだけは知っている。……ありがとう。本当に……ありがとう」

 ハンナに手を包まれながら、『間借り男』の瞳から涙が落ちた。

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