銃と呪いと銀世界

第43話 やばたにえんでござる

 ハンナの背や頭を優しく撫でながら、梢さんは話を続ける。

「またも何が起こったのか、私にはわかりかねました。しかし、これまでの世界とは何かが違うという雰囲気だけはわかりました。私は長い夢から覚めた人のように、頭が朦朧もうろうとしていたのを覚えています。深い意識の底から次第に浮かび上がり、少しずつ糸を手繰たぐるように世界と再び出会いました。そこには私とハンナがいました。そして、私たちには影が元通り存在していました」

 そこで梢さんは一旦、昔語りを中断して空に目を移した。心なしか、少し厳しい目つきになっている。

 ぼくは梢さんの名前を呼びかけた。すると、彼女は物悲しげな瞳をぼくに向ける。ハンナに似たその瞳が、今にも泣き出しそうな光をたたえていた。

「……どうやら時間があまり残されていないようです。まだ語り残したことはたくさんありますが、急がなければなりません。あなたにお願いしたいことがあります。私の夫の、狐少年のことです」

 彼女がかもし出す、張りつめたような雰囲気が、ぼくを緊張させる。

「……あの人は、とても優しい人です。私とハンナを命がけで守ってくれました。そのことには感謝しています。しかしそれと同時に、あの人は世界を呪っています。この世界を終わらせようと思いつめるほどまでに。幸い、その呪いは何かの齟齬そごによって、今日まで成就じょうじゅすることはありませんでした。ところがそのその呪いが今まさに遂げられようとしています」

 ぼくは影を取り戻した狐少年のことを思い浮かべる。全てをあきらめ、悟りきったような、悲しげな表情だったことを思い出す。

 しぼり出すような声で、梢さんが言う。

「……私は、あの人にこれ以上罪を重ねて欲しくありません。そうなる前に、あなたの手であの人を……この世から解放してあげて欲しいのです」

「それは……どういうことですか?」

 ぼくが戸惑ったような表情でそう訊くと、梢さんがぼくの前にある物を差し出す。ぼくは呆然としながら、それを見つめる。

 黒光りのする、いかつい形をしたそれは、どう見ても拳銃としか見えなかった。

「時間がありませんでしたので、そんなものしかご用意できませんでした。戦時中に使われていた、いわゆる十四年式拳銃というものと同じ構造になっております。重さは実際のものより軽く、威力も弱いものですが、その分撃ちやすくなっています」

「ちょっと待ってください」

 ぼくは慌ててそう言った。「ぼくに……狐少年を殺せと仰るんですか?」

「そうです」

 梢さんが即座にそう答える。ぼくは言葉を失う。


 ぼくは正直、その軍用拳銃を受け取りたくなかった。しかし事態はぼくの考えている以上に切迫しているらしい。

「仮に狐少年の『呪い』が成就した場合、世界がこれまでに受けた惨禍さんか以上の災いが起こるでしょう。そうなると、地上の生き物は遠からず死に絶えることを避けられません。もちろん、ハンナとあなたも」

 ぼくの胸が異常に高鳴る。指先が微かに震える。呼吸が苦しい。

「……他の道はないんですか?」

 そう訊いたが、梢さんはにべもなく否定する。

「ありません。もうあの人の心は影に支配されてしまったのです」



   〇



 夢から目覚める前に、梢さんが申し訳なさそうに言葉を紡ぐのが聞こえた。

「あなたにお願いすることしか出来ない私をお許しください。ハンナを、どうかよろしく……」

 ぼくは迷っていた。迷いながら目覚めた。目覚めても迷いは断ち切れなかった。さっきまでの会話はただの夢だったかも知れないと、甘い空想にしがみつきたくなる気持ちもあった。けれどもぼくの右手には、それがただの夢ではない証拠とでも言わんばかりに、一丁の軍用拳銃がしっかりと握りしめられていた。不吉な冷たさが手のひらにあった。

 隣に座っていたハンナも目を覚ましたようだった。ぼくは彼女から隠すように、拳銃をシャツの内側にしまう。

「……おはようにゃん」

「ハンナ、おはよう」

 この挨拶も久しぶりだなと思った。

「……とても懐かしい夢を見ていた。お母さんが生きていた頃の夢だった」

「そうか」

 彼女はぼくの胸にけもみみを押し付けるような姿でもたれながら、夢の余韻を噛みしめているようだった。


 その余韻に何か寄り添うような気持ちでいたぼくの目に、窓外の景色が映った。何か白いものが細かくちらついている。

「これは……やばたにえんでござる」

 今まで沈黙していた運転席の男が急にそんなことを喋った。やばたにえん?

 ぼくは何事があったのかを訊ねる。男は振り返らずに、こう答えた。


「狐少年どのが雪を降らせておる。この勢いだと半刻はんときもせぬうちに道は雪で埋まろう。もちろん、このバスももうじき先に進めなくなりおりはべり。どうあってもあなた方を辿りつかせまいと画策しておりいまそがり」


 男の言葉がいっそう混乱の度をきわめていた。

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