第42話 私はここにいないはずの人間です

 それから数十分が経過した。

 ぼくらを乗せたバスは相変わらず安全運転をたもちながら走行し、バスの内部には相変わらず何者かの気配が漂っている。自動運転であるにもかかわらず、運転席の男は運転席で熱心に運転手としての責務をまっとうしようとしている。ぼくの隣ではハンナがか細い寝息を立てている。

 そうしているうちに、疲れが出たのだろう。ぼくもいつしか浅い眠りに落ちていた。



   〇



 それはぼくの夢というよりは、何となく、他の誰かの夢という風に感じた。

 地平の果てまで春の若草がえ、あたたかな陽だまりがそこかしこに揺れている。

 目的もなく歩いていると、視界の果てに一本の大樹がそびえていた。

 木蔭に二つの人影を認め、ぼくはゆっくりと近づく。一人はまぎれもなくハンナだと気がついた。彼女は、ぼくの見知らぬ女性の膝に、甘えるような形で安らいでいる。夢の中でもよく眠っているようだった。

 ハンナを膝枕しているその女性の瞳が、ぼくに向けられた。

 ぼくは思わず胸が高鳴るような気分を味わった。その瞳がハンナにそっくりだったからだ。

 豊かな黒髪の、美しい女性だった。

 ぼくが戸惑っていると、微笑みながら彼女は言った。


「ようこそいらっしゃいました。あなたには一度お会いしたいと思っていたのです」


 彼女はそう言いながら、慈母のようなしぐさでハンナの頭をなでている。

「もしかして……ハンナのお母さんですか?」

「そうです。ハンナの母親の梢と申します。はじめまして」

 ぼくはかしこまって頭を下げる。

「去年の冬に、亡くなられたと聞きました」

「ええ、この子にはずいぶん寂しい思いをさせました。ですから、あなたには感謝しているのです。私のいない世界で、ハンナに温もりと優しさを与えてくれたことを」

 ぼくは彼女に促され、彼女たちと同じ木蔭に座る。

 いくつかの世間話をした後で、梢さんがこう語った。

「お察しのとおり、本来なら私はここにいないはずの人間です。この国が戦争に明け暮れているさなか、私は十六の少女でした。怪奇としか言いようのない運命に巻き込まれ、私は獣人の子を宿しました。その子がハンナです。夫が名付けてくれました。神に愛される、という意味の古代の言葉のようです」

 ハンナは相変わらず眠り続けている。

「何が起こったのか、あの時はわかりませんでした。肉体をうしなった今だからわかるのですが、夫は獣人の王の血筋だったのですね。私とハンナを守るために、あの人は王の能力を使ったのです。私とハンナは『王の影』と呼ばれる、閉ざされた世界の中に送り込まれました」

「この世界のことですね」

「ええ。この世界ではすべてのものは影を持ちません。そして時間の経過もありません。私はこの世界で十六の少女のまま時を過ごしました。同じようにハンナも、生まれたての幼な児のまま時を送りました。外の世界では六十年もの時間が流れても、私は少女のままで、ハンナは赤ん坊のままでした」

 ぼくは気になっていたことを訊ねた。

「この世界では、普通の人間はいろんなものを損なうと聞きました」

「まさにそうです。多くの場合、損なうものは主に『記憶』のようです。私は私にまつわる記憶が少しずつ削られました。次第に、私は私の名前を忘れ、どこで生まれたのかも忘れ、夫のことも忘れました。しかし夫が獣人であったこと、ハンナという名前、そうしたことは忘れないでいられたのです」

 ハンナは生まれて間もない赤ん坊だったので、損なうものがほとんどなかった。あるいは、王の血筋だったのが幸いしたのかも知れない。

「私は赤ん坊のまま成長しないハンナのそばで、いつ果てるとも知れない夢を繰り返しました。その夢の繰り返しにむということさえも、私は忘れてしまったかのようでした。そんなある日のことです。私とハンナは何の前触れもなく、外の世界に放り出されていたのです」


 それはおそらく十四年前、あの廃墟の施設址しせつあとが調査された時のことだったのでしょう。そう梢さんは語った。

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