貸し切りバスに乗せられて

第40話 ANYWHERE OUT OF THE SHADOW.

 それからぼくたちはこれからのことを相談し合い、ひとまずぼくたちが住んでいたマンションに向かおうということになった。きっかけはハンナの言葉だ。

「とりあえず影が欲しい。何となく落ち着かない」

 それはぼくも同じ気持ちだった。いくぶんこのおかしな世界にも慣れ始めたとは言え、やはり影はあったほうがいい。影が存在しないのは、ある意味自分が存在しないのと同じような心地ですらある。

 そこでぼくは思い当たった。

 ぼくの影がどこに行ったのかはわからないが、ハンナの影がどこに行ったかはわかる。

 ハンナがベッドの上に影だけを残して消えてしまったあの日、ぼくはそのハンナの影だったものを白紙の本に収めた。それは、今でもぼくの部屋のぼくの本棚にあるはずだ。

 この『王の影』の世界が、現実の世界と瓜二うりふたつのものならば、この世界でもその本が見つかるのではないか。



   〇



 だからと言って、すぐに辿り着けるわけではない。この廃墟スポットから都内までは、かなりの距離がある。

 ここから十キロほど離れた場所に、さびれたバス停があることはある。この廃墟に来るたびに利用するバス停だが、一日一本しかバスは来ない。しかも、それは現実世界での話であって、こんな『王の影』の世界でバス会社が運営されているとは思えない。

 となると、歩くしかない。距離的に、都内までニ~三日はかかるだろう。 


 その前に、ちょっと気になることがあったので、ぼくはハンナを連れて少しだけ寄り道をする。

 廃墟の入口辺りを、うろ覚えの記憶をたよりに散策してみた。ぼくと狐少年がこの廃墟に連れて来られた時に、乗せられた自動車がないかと思ったのだ。

 しかし目当てのものはなかった。ところがよく見ると、地面にはかすかにいくつかのタイヤの跡が刻まれている。現実の痕跡が、こちらにも反映しているのだろうか。

 その時、隣にいたハンナがぼくの袖を引いた。

「ものすごく……嫌な匂いが残っている。あまりここにはいたくない」

 ぼくは特に何も感じなかったが、彼女は眉をしかめてそう訴えた。


 廃墟の入口から遠ざかるにつれて、ハンナは落ち着いた様子を取り戻す。

「ハンナ、大丈夫?」

 彼女はこくりと頷いた。ぼくの左手を汗ばむほどに握っていた手も、少しずつゆるんで柔らかさを取り戻している。

「すごく嫌な匂いだった。今まであんな匂いは嗅いだことがない」

「そんなに」

「誰かを……と言うより、自分以外の全てを呪っているような匂いだった。どうやったらあんな匂いを出せるんだろう」

 ぼくはその匂いが誰から発せられたものなのかが、何となくわかるような気がした。

「その匂い……もしかしたら、さっきぼくが話した狐少年のものかも知れない」

 ハンナは表情を変えずに、歩む足取りに視線を落としている。何かを考え込んでいるような雰囲気だった。ぼくらのあいだにしばらく沈黙が漂う。

「その……狐少年さんは本当に私のお父さんなの?」

 唐突にハンナが言った。ぼくはどう答えるべきかを悩む。

「……確証はないけど、多分そうだと思う」

「……会ったことのないお父さんが、あんな匂いだったなんて」

 ハンナは顔を伏せたままそう呟く。世界を終わらせようとするほどに、思いつめた狐少年。憎悪と呪詛じゅその匂い。それにぼくは思いを馳せる。

 しかしそれと同時に、ぼくはぼくらの前に現れた頃の、影のなかった狐少年のことにも思いを馳せる。

 そしてこんなことを考える。いったいどちらが本当の狐少年なのだろうか、と。


 そんな答えの出ない考えを巡らせながら歩いた。



   〇



 足を棒にしてニ~三時間ほど歩き続けた道の先に、寂れたバス停が見えた。錆びだらけのベンチにハンナと二人で腰を掛け、ペットボトルの水を少しだけ飲む。ハンナはなぜか先ほどから疲れた様子もなく、水もほとんど飲まない。

「私はいい。この世界に来た時から、まったくお腹が減らないの」

 だからあなたが飲んで。そうハンナは告げる。この『王の影』の世界がどういう法則で成り立っているのかをいぶかしく思いながら、ちらりと横を見るとバス停の時刻表が目に留まった。

 そこには、バスの到着時刻や路線図などの情報がいっさい記されていない。代わりに、


 " ANYWHERE OUT OF THE SHADOW. "


 という英語の短文が、奇妙な字体で書かれている。それだけ。


「……影の外なら、どこへでも……?」

 ぼくが半ば無意識に口の中でそう呟いてみたのと、静寂の世界に音を響き渡らせて一台のバスがやってきたのは、ほとんど同時だった。

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