第39話 変な声が出そうになる甘噛み

 ハンナの嗚咽おえつがようやく収まるにつれて、ふさふさの尻尾がパタパタと振るい出す。

「ハンナ……、そこを甘噛みされるのはちょっとくすぐったい」

 しかしハンナは聞き入れない。

「はむ、はむ」

 ぼくは仕方なくされるがままになるが、油断すると変な声が出そうになる。

 ふと彼女が何となく不服そうな顔つきになった。

「……あなたの匂いがあんまりしない」

「……そういえばハンナの尻尾もお日様の匂いが薄いような気がする」

 ぼくはハンナの尻尾に鼻を埋めながら、そう呟いた。


 客観的に見るとそうとう特殊に思えるそんなハグを、ぼくらは誰もいない道路の真ん中で繰り返した。ハグであるかも怪しい。



   〇



 ハンナが肌身離さず持っていたスマホは、ふしぎなことにバッテリーがほとんど減っていなかった。

「この世界に来たすぐは全く使えなかったけど、へんな服装のおじさんに渡したら少しだけ使えるようになった」

 電話やメールも繋がりこそしなかったものの、とりあえずぼくやさゆり姉宛てに何度も試してみたらしい。

 調べてみると、ぼくのスマホには膨大な着信履歴が発生していた。ほとんどハンナからのものだ。こんな着信は一度もなかったはずだが、さかのぼってみるとハンナが消えた翌々日からそれは始まっていたようだった。

 ぼくは改めてハンナを抱き寄せた。力を込めすぎたせいか、ハンナから「うにゅう」という声が洩れたけど、抵抗はなかった。むしろもっと強く抱きつかれた。

 そのあと・・・・・・、何と言うかそんな雰囲気になったこともあって、初めて唇を重ねた。


 ぼくたちはそれからいくつもの言葉をかわし合い、お互いが不在だった日々の出来事を交換し合った。

 ハンナが影だけを残していなくなった日のこと、まるでハンナと入れ替わるように名前も影もない狐少年が現れたこと、得体の知れない宗教団体に連れ去られたこと、『王の影』を探すよう強制されたこと、そうして気がついたらこの変な世界に迷い込んでしまっていたこと。

 あらかたのことを話し終えると、ハンナはこう言った。

「……私も、あの変な服装のおじさんに聞かされた。ここは『王の影』の中の世界だという話。今ひとつ理解しにくいけど、その話によると私は獣人王の一族ということになるらしい」

 ぼくも今ひとつ理解しにくい。

「ぼくもその話を聞いた。その『変な服装のおじさん』によると、ずっと昔に『命令』が出されたけど、その時すでに『王の影』は継承される段階だったらしい」

 まだ赤ん坊だったハンナに影が継承されようとしていた段階での命令。そこで『変な服装のおじさん』の言を借りれば、一種のバグが起きた。

 そのため、王が誰であるかも明らかでなく、命令は曖昧にしか遂行されなかった。

 影が二つになる奇病は、その結果として生み出された、いわば副産物のようなものだったのかも知れない。


 そこでぼくは思い至る。

 ぼくたちがこうして巻き込まれている現状が、言ってみれば王が誰でもないことにたんを発するのだとしたら。

 この状況を打破するためには、王が誰であるのかを明らかにする必要があるのだとしたら。

 だとしたら、ぼくたちがこのおかしな世界から解放されるには、


 しかしそれは突拍子もない発想に思えた。

 そもそもハンナが王になるとして、その方法が皆目わからない。

 もしハンナが『王の影』を継承できたとしても、ハンナがハンナでなくなることがあったら意味がない。

 

 途方にくれた顔で思い悩んでいると、ハンナの手がぼくの手をそっと握った。

 横を見る。ハンナの透きとおった瞳がぼくに向けられている。ぼくは微笑みながら、その華奢きゃしゃな手を握り返す。

 ぼくは深呼吸をして、見渡す限りいちめんの、灰色の空を見上げた。相変わらず太陽はどこにも見当たらないが、それでも心を強く持とう。これからすべきことがわからなくとも、必ず見つけ出す。見つからなくても諦めない。何があろうと、絶対に、ぼくらは家に帰る。


 何となく、今思いついたことをハンナに訊ねてみた。

「元の世界に戻ったら、最初に何が食べたい?」

 ハンナはかすかに首を傾げ、しばらく考え込んでいたが、おもむろにこう答えた。

「トマトリゾット」

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