第38話 やっと君の場所に辿り着いた

 托鉢僧姿の男が、別れ際にこんなことを言った。

「王の影の世界は、いわば鏡の内と外の関係に似ておる。ここがあちらの世界に類似るいじしておるのはその故である。そのことをよく思索しさくめされい。ご武運をお祈り致す」

 男は最後まで慣れない言い回しだったが、ぼくはその言葉をきちんと心に留めた。

 一度だけ振り返ると、幹の太い樹のかたわらで、男はいつまでもぼくを見送っていた。



   〇



 ぼくの足取りは自然と駆け足になった。

 時折スマホの液晶画面に目を落としながら、崩れかけたビルの隙間をくぐり抜ける。亀裂の入った路面につまずきかける。空は相変わらず灰色で、太陽はどこにも見当たらない。

 マップに映るハンナの位置も少しずつ移動しているようだった。

 ぼくはその速度を上回らなければならない。それでなくては、ぼくはハンナに追いつけない。

 ぼくの駆け足は次第に勢いを増す。

 息が切れる。日頃の運動不足がたたる。だが休んでいる暇はない。

 ぼくがこうして足を止めている間も、ハンナは一人ぼっちでいることを思い出す。

 ぼくは夢中になって走りながら、ハンナのことを考えた。考えるのはハンナのことだけだった。

 そうしてハンナのことに想いを巡らせていると、ふと抑え切れない怒りのようなものが湧いて来るのを感じた。何に対する怒りなのかもよくわからなかったが、心の中で自然と言葉がつむがれた。

 王の血筋、王の影の継承者。原初の盟約。

 その言葉の数々を、ひとつ残らず引きちぎって冒涜ぼうとくしてやりたい。

 どうしてハンナをそっとしておいてくれなかった。そう思った。どうしてぼくとハンナをそのままにしておいてくれなかったのか。

 そもそもハンナが何をしたと言うのだろう。ぼくたちが何にそむいたと言うのだろう。

 ぼくは絶対に許さない。ハンナをこんな目に遭わせた者を見つけたら、必ず相応の報いを受けてもらう。たとえ天が許しても、このぼくが許さない。


 そうして走っているうちに、液晶画面の中の位置情報の動きに異変が生じた。

 これまではある道筋を辿っているだけだったのに、急に止まったかと思うと、全く反対の方向に動き始めたのだ。それはたんに、元来た道を引き返しているようにも見えたし、あるいはぼくのいる場所へハンナが向かっているようにも見えた。いずれにせよ、ぼくとハンナの距離は着実に縮まりつつあった。

 ぼくとハンナの距離が縮まるのに比例して、ぼくは次第に液晶画面を覗かなくなった。入り組んだ道なき道がなくなりつつあったということもあるし、ぼくの中の何かが「そこ」と呼応こおうし合っているように感じられたからだ。そして、それは確信に変わり、やがて現実に変わった。

 視界の向こうから、小さな人影が駆けてくる。

 見慣れた獣耳と尻尾は、遠目からでもわかった。

 間違いない。ハンナだ。


 ぼくは大声で彼女の名前を呼んだ。彼女もぼくの名前を呼ぶのが聞こえた。そうしてお互いの名前を幾度となく呼び掛け合いながら、ぼくはやっと辿り着いたと思った。やっと君の場所に辿り着いたと思った。

 手が触れ合うほどの近さまで、ぼくらは辿り着いた。そこでぼくは少しためらう。これが夢であることをおそれて、触れるのをためらってしまう。だが彼女はためらわなかった。ハンナは迷いなく、ぼくの体に体当たりするように飛び込んできた。

「ぐはっ!!」

 体勢を崩して、ぼくは後ろのめりに倒れこんでしまう。痛みよりも先に、前にもこんなことがあったようなことを思い出して、懐かしさすら感じた。

 仰向けに倒れたぼくの体に、馬乗りになったハンナが抱きつく。そして、大声を上げて泣き出した。


「……ああ、あああああああ! ……うあああ、っあ、ああ……あああああああ!」


 ぼくはその言葉にならない言葉も包み込むように、彼女を抱き寄せた。

「ハンナ……、やっと……会えた」


 ハンナの服は、彼女が影だけを残していなくなったあの日と同じ、水玉模様のパジャマ姿のままだった。そして、彼女には影がなかった。

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