導かれ、巡り会う、ふたり

第37話 元の世界に。ぼくたちの家に。

 ハンナ。

 ぼくは自分の耳がしばらく信じられなかった。その男の口から発せられたその名前を、ぼくは二度も訊き返したほどだ。男はその度に同じ名前を繰り返した。ハンナ。ハンナ。

「ハンナは……ここにいるのですか」

 ぼくはそう訊ねながら、努めて冷静に問いを重ねる。「そのハンナという女の子は、ぼくの知っているハンナで間違いないのですね」

 男は焚き火から視線をらさずに答える。

「厳密に申すならば、貴殿の知っておられるハンナ嬢とはいささかおもむきが異なっておられる」

「……」

 ぼくは息を呑む。

「貴殿も承知のこととは思うが、この世界では一切の存在は影を持たぬことになっておる。すでに自らに影のないことは知っておられよう。それはハンナ嬢も例外ではないのであらん」

「ぼくから影がうしなわれていることはわかっています。そしてハンナも例外ではない。それはわかりました。しかし、それがどういう……」

「貴殿はこの世界に来た始めであるから、まだ知らぬも無理からぬ。影がなくなるということがどれほど代償だいしょうともなうものであるかを。ハンナ嬢がここに訪れてからというもの、毎日のように少しずつ損なわれておる」

「……損なわれて、いる?」

「もちろん、ハンナ嬢におかれては王の血筋であらんがため、損なわれるというても大したものではない。しかし損なわれていることは明瞭な事実である」

 ぼくは言葉を失う。


 男からハンナの向かった方向を聞き出し、ぼくは立ち上がる。

「お世話になりました」

 そう言うぼくに、編み笠姿の男は押しとどめるような声を掛けた。

「しばし待たれい。ハンナ嬢に会うて、それからどういたす。もはや貴殿の知っておられるハンナ嬢ではないやもわからぬぞ」

 ぼくはしばらくの間、沈黙する。しかしぼくの気持ちは固まっている。

「決まっています。ハンナを連れて帰る」

 ハンナを連れて帰る。元の世界に。ぼくたちの家に。

「貴殿はそう言われる。しかしハンナ嬢がそう思うとは限るまい」

「なら待ちます。ハンナがそう思ってくれるまで」

「ではいかにして帰らんと欲する」

「まだわかりません。けれど必ず探し出します」

 ハンナがぼくを忘れている。そう考えることは足が震えるほどに怖かった。

 それと同時に、ハンナがぼくのことを忘れるはずがないという確信もあった。あるいはそうではないのかも知れない。ぼくがそう信じたいだけの願望なのかも知れない。

 それでもぼくはハンナに会いたかった。たとえその結果がぼくを傷つけるのだとしても、会わずにはいられなかった。

 ぼくが再び歩き出そうとすると、背後で男の含み笑いが聞こえた。

「いや失敬。少々驚かせすぎたやも知れぬ。ご安心めされい。ハンナ嬢は貴殿のことをきちんと覚えておられる」

 ぼくは思わず振り返る。男はさらにこう言った。「多くのことを忘れてしもうたが、貴殿のことだけは執拗しつように忘れまいとしておる。その思いに足る人物であらんかどうかを見極めたかった。ひらにご容赦ようしゃされよ」


 男は錫杖しゃくじょうのようなもので道を具体的に指し示した。この先にハンナは向かったらしい。

「彼方には貴殿とハンナ嬢の暮らしていた住まいがあると察する。おそらくその道筋を辿っておるのであろう」

 ぼくは礼を言う。最後に男が妙な注文を出した。ぼくのスマホを見せて欲しいと言う。

 男はぼくのスマホを手に持ち、じっと視線を注ぐ。それはほんの数秒のことだった。

「お返し致す。大したこともできぬが、拙僧からのほんの助力でござる。後ほど確認されるがよかろう」

 ぼくはスマホを受け取る。特に何の変わりもないようだが。

「ここなる影の世界にても使用できるようにしておいた。念のためにハンナ嬢の『すまほ』とやらにも同じ操作を施しておいたのは、我ながら神対応であったと申すべきであらん」


 ぼくのスマホから聞き慣れた通知音が鳴った。

 ぼくがその液晶画面に目を注ぐと、とあるアプリからの通知が届いている。それは、ハンナの持つスマホの位置情報を知らせるものだった。

 ぼくは思い出した。そういえばさゆり姉がハンナ用のスマホを購入した時に、ぼくが過保護かと思いつつハンナのスマホに入れておいた機能だった。これまで何度開いてみても探知出来なかったハンナの位置が、マップの上に点滅している。

 この場所にハンナがいる。ここから、そう遠くはない。

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