第36話 是非もなし是非もなし

「拙僧がいずこより来たるかを誰も知らぬ。そもそも拙僧は何物であるのか、未だに答えを得ぬ。原初の記憶はおぼろなりしが、ある獣人と盟約めいやくを交わしたことは昨日のように思い出せる」

「拙僧」と名乗る男の話は奇妙で古風な喋り方だったが、大体の内容は把握できた。彼によると、大体こういうことらしい。


 いつ頃のことかはわからないが、とある獣人と彼は出会った。多くの生命体は彼が存在することすら気付かなかったが、少なくともその獣人だけは彼が紛れもなく、いびつな形で存在していることを察した。獣人は彼にこう尋ねた。

「あわれないのちよ。いのちと呼べるかも定かでないものよ。永らえたいか、否か」

 形のないものは微かに鳴動した。

「されば我と盟約せよ。我の影を貸してやる。我に害なす者を滅ぼせ」

 形のないものはさらに鳴動した。盟約は成立した。

 獣人の一族にあだなす者たちは、不思議な滅び方をした。ある部族は一夜にして消失し、ある部族は仲間同士で殺しあった。またある部族は静謐せいひつのうちに先細り、血統が絶えた。いつしかその獣人はあらゆる部族の王となり、この地を統べた。

 形のないものは、王の影の中で少しずつ自我を持ち、自在に形を得た。

 しかし獣人の王も年老い、やがて死に至る。今際いまわきわに、影は新たな盟約を結んだ。

「わが一族の影はお前のものだ。王の血統の影に移り住め。如何なる時も王の命令を違えてはならぬ。わが一族よとこしえなれ」

 王は死ぬ。しかし王の影は継承された。長い年月がそうして矢のように過ぎた。



   〇



 奇妙な男は焚き火に枝をつぎ足した。新たな枝に新たな火が燃え移る。

「幾年月が過ぎ去った。幾百もの王が入れ代わり立ち代わった。しかし血統こそ絶えなかったが、王はやがて影のことを忘れた。拙僧のこともいつしか忘却された」

 男は事実を述べるように、ごく淡々とした口調でそう話した。ぼくはその事実を少しずつ理解しようと努めた。男はさらにこんなことを言う。「しかし原初の盟約は今もってなお生きておる。拙僧が王の命令を違えることはまかりならぬことになっておる。さようなことは拙僧のアイデンティティに関わる由々ゆゆしき事態でござるゆえ」

 男の話す日本語はところどころわかりにくい。

 しばらくの沈黙の後で、ぼくはいろんなことがようやく腑に落ち始めたような気がした。そしてこう訊いた。

「つまりあなたは……獣人王の影に寄生している、という理解でよろしいですか?」

「それは的を射た理解であるやも知れぬ。しかし裏を返せば、拙僧にこそ王が寄生していると考えられぬであろうか。鶏が先か卵が先かという循環論法となり収拾がつかなくなりそうな気配も微レ存であろうが」

「微レ存?」

 またよくわからない日本語が登場したが、そこは素通りしてぼくは再び訊ねる。「訊きたいことがあります。今現在、あなたは誰の命令に従っているのですか。そして、どうしてここにぼくがいるのですか?」

「質問が二つも重なっておるが、出来うる限り誠実に回答せん。まず、誰の命令に従っているかという質問であるが、これは非常に曖昧なのでござる。なぜかと申すに、王が誰なのかが拙僧にもわからないからである」

「わからない?」

 男は大げさに頷いた。

「それよ。数十年前、王の影が継承される段階で拙僧に命令が来た。指示系統が明瞭でない命令であるがゆえ、一種のバグが起こっておると考えてよろしい。これにはさすがの拙僧も手に余るのである。是非もなし是非もなし」

 数十年前というと……戦時中の実験施設でのことだろうか。仮に、あの時点で狐少年からハンナへの継承が起こったとすると……。

 ぼくが考え込んでいるのも構わず、男はまた話し始めた。

「そなたがここにいる理由という第二の質問であるが、それはご自分で究明きゅうめいされるがよろしかろう。まあ、拙僧の見立てによると、ごくシンプルなものに過ぎない。王であるかは曖昧であるが、候補の一人として有力な人物の望みによるものである。あれは愛とか申すものであろうか。拙僧にはよくわからぬ事情ではあるが」

 ぼくは身を乗り出した。

「その人物とは、誰のことですか?」

 男は編み笠を被った頭をかしげた。

「何じゃ、知らなかったのござるか。あれは確か……ハンナと申す女子にござる。つい先ほどもここで紅茶を飲んで行かれた。まだ遠くには行っておらぬと思うがの」

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