第35話 ここは影の中の世界にござる

 ぼくは洞窟の前でなす術もなく座り込む。何度確認してみても、どうやらぼくの影はうしなわれているようだった。

 所在無しょざいなげに立ち上がったり、その辺りをうろうろしたりしながら、およそ無為むいとさえ思われる時間を過ごした。しかしどれほど考えてみても、ぼくが現在置かれているのがどういった状況であるのかがはっきりとしない。夢を見ているような気分だったので試しに頬をつねってみるというベタな行為に出てみたりもしたが、普通に痛かった。

 ぼくは気持ちを落ち着けるために、洞窟の中に残されていた食料の残りや水を拾い集め、少しずつ口に含み、噛み砕き、飲み干す。そしてまた途方にくれる。


 そんな堂々巡りをいくらか続けてみるが、答えは出ない。この場所から離れるのはなぜか不安だったが、思い切って辺りを探索してみることにした。

 ここから離れれば、何かがわかるかも知れないし、誰かに会えるかも知れない。そういう漠然ばくぜんとした希望的観測だけが今は頼りだった。



   〇



 羽織はおっていた上着にくるむようにして、水や固形食料を可能な限り詰め込む。それを肩に担ぐようにしてぼくはこの場所から離れた。行き先は特に決めていなかったが、ごく自然に目的地は定まっていた。

 ここに連れて来られる途中に通った公園跡、ぼくがハンナと初めて出会った場所だ。


 内心は焦っていたが、意識的にゆっくりと歩くように心がけた。この先何が起こるかわからない。体力はなるべく温存しておいた方がいい。

 そうやってぽちぽちと歩きながら、ぼくは幾度となく辺りを見回したり、太陽のない灰色の空を眺めたりした。地面に目をらしてみたりもしたが、相変わらずぼくの影はどこにもない。風はさっきから一度も吹いていないように思われる。大気そのものが停止しているような雰囲気さえあった。気温は寒くもなく、暑くもない。こんな状況でなかったら、ある意味理想的な気候かも知れない。

 その途中、ぼくは何度も狐少年の名前を思い出そうと努めてみた。しかしぼくには思い出すことが出来なかった。あの狐少年と過ごした日々の記憶は残っている。ところどころが曖昧になりかけてはいたが、それでもまだ鮮明に思い出すことが出来た。それなのにそこから彼の名前だけが的確に抜け落ちてしまっている。まるでそこだけをスプーンか何かでくり抜いたかのように、ぼくの中から欠落してしまっている。

 ふと、何日か前に狐少年から聞かされた昔話を思い出した。彼が図書館で読んだというチンギス・ハーンについての物語。そして、影のない自分の孤独について。

 その本は確か、若かりし日のチンギス・ハーンの孤独をこう表現していたという。影よりほかにともなく、尾よりほかむちなし。

 ぼくはしばらくそのフレーズを口の中で繰り返してみた。それと同時に、狐少年の言った『影のない孤独』についても考えてみた。

 数日前まではそれがどういった孤独なのかよくわからなかったが、今なら少しはわかりそうな気もする。何と言っても、今のぼくは影を持たないのだ。


 歩みを進めるにつれ、何となく馴染みのある風景が目につくようになった。

 思っていたほど道に迷うこともなかった。うずたかく積もった瓦礫がれきの山が視界をさえぎっているが、おそらくこの向こうが目的の公園跡だと思われる。ぼくは迂回うかいしながら、方向を間違わないように慎重に歩く。

 その時、鼻腔びこうを煙のような匂いがくすぐった。ぼくは辺りを見回しながら、ある種の警戒心を抱く。風のそよぎさえないこの世界に、何かの異変が生じている。

 おそるおそると、覗き込むようにして先をうかがった。この先に何物かがいる。本能のようなものがそう告げている。

 唐突にぼくは背後から肩を叩かれ、反射的に振り向いた。



   〇



「大きな声を出されるからびっくり致しましたでござる」

 奇妙な口調で、編み笠を被った男はそう言う。びっくりしたのはこちらの方だ。

「驚かせたのなら謝ります」

「まあ拙僧せっそうもこのような風体ふうていでござるからの。無理からぬと察する」

 黒い袈裟けさまとった托鉢僧たくはつそうのような男は、焚き火に枝を放り込みながら一人で頷いている。さっき感じた煙のような匂いはこれが原因か。

 ぼくはその焚き火にあたりながら、あらためて僧侶風の格好をしたその男を眺めた。背丈はぼくとそう変わりはなく、目深まぶかにかぶった編み笠が影になってて、顔はよく見えない。

「失礼ですが、あなたは?」

 ぼくはためらいがちにそう訊いてみた。男はこちらを見ずに、

「拙僧がこのようななりをしておるのは、いわゆるフィーリングというやつでの。どのような姿でも良かったのじゃが、昨今はこの姿が最もしっくりとくる。しかし本を正せば如何なる姿でもあらぬものでござる」

 あまり聞きなれない、妙な日本語だと思った。

「それはどういう……」

「拙僧はこの世界を間借りしている借家人のような存在と考えてもらえばよろしい。拙僧は単独では生きられぬによって、影の中に住まわせてもろうておる。無論、これは正当な契約によるものでござる」

 話がまったく見えてこない。ぼくは狐につままれたような気分になる。

「影の中?」

「さよう」

 奇妙な男はそう言うと、手の平を合わせて祈るような姿勢になった。


「ここは影の中の世界にござる。厳密に申すならば、王の影の世界にござる」

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