第32話 私はたまたま選ばれたにすぎない

 ぼくは狐少年の横顔を見た。薄明かりに照らされたその横顔は、特にどのような表情もなかった。少なくともぼくにはそう見えた。何の感慨かんがいもないような顔つきで、彼はひざまずいた小柄な老人を見下ろしている。

「獣人の王? いったいどういうことだ?」

 ぼくは思わずそんなことを呟いていた。桔梗さんもこれがどういう事態なのかを測りかねているような姿だ。

「あなたがたに話しているいとまはない。わざわざ来ていただいた上に、さらに要求するのも気が引けるが、あなたがたには王の影を探していただく。この中のどこかにあるはずなのだ。もどきの影ではなく、正真正銘、王のまことの影だ」

 老人がしわがれた声でそこまで話したところで、桔梗さんがこう言った。

「……思い出しました。あなたは『はがさず教』の教祖ですね。ここ数年、人前には現れなかったが、以前機関紙の記事で拝見したことがあります」

「教祖?」

 桔梗さんは頷きながら、ぼくに説明する。

「十数年前に発足ほっそくしたばかりの新興宗教の教祖です。あなたも名前ぐらいは耳にしたことがあるでしょう。奇病が流行してからというもの、決して『もどき』の影をはがそうとしない集団があると。彼はその集団の指導者であった人物です。もう引退したと聞いていましたが、まだ存命だったとは」

 ぼくはその老人を見つめ、そして気がついた。仄かな灯りに照らされた老人の横に、

 老人は跪いた姿で桔梗さんをにらむ。

「私がどのような人物であろうともあなたには関係ない。あなたが為すべきことはただひとつ、損なわれたままの王の影を探すことだ。そしてその王の影を、あるべき場所にお返しすることだ」

 そこまで話したところで、狐少年がここに来て初めて喋った。

「ごめん、何だかすごい話になっちゃってるけど、人違いじゃないかな。私は王なんて柄じゃないよ」

 老人が即座に否定する。

「損なわれた影が戻れば、何もかも思い出すはずです。かつて獣人の王のみが影を意のままに操ったと聞き及んでおります」

「私がその獣人の王だと言うの?」

「あなた様に影がないことが何よりの証拠です。この世にあるもので影のない者はおりません。ただ一人、あなた様を除いて」

 ぼくは石のように呆然と立ち尽くして、彼らの対話を見つめている。

 少し思案深げに、狐少年が訊いた。

「ふうん。それでおじいさん、私がその王だと仮定して、どうして私の影を取り戻すお手伝いをしてくれるの? おじいさんは一体どういう人?」

「私はただの導き手として、たまたま選ばれた者に過ぎません。おそらくこの役割は誰でも良かったのでしょう。まことに天の意思とは複雑怪奇なものです。老い先短い爺ですが、私は私に与えられた使命を全うせんと老骨に鞭打ってるだけでございます。それ以上のことは知るよすがもありません。それはともかく」

 跪いた老人が立ち上がり、ぼくの前に歩み寄った。「あなたがたには一刻も早く、王の影を探していただく。それと言うのも、理由はわからないが王の影が少しずつ変質しておることを我々は感じておる。このままでは影は影でも何でもなくなり、我々もまたこの世に存在する意義を永遠に失うこととなる。それは我々の望むところではない。あなた方はすぐに行わなければならない」

 ぼくには老人が何を語っているのか全くわからない。狂信的にさえ思えた。


 それからしばらくの押し問答の後、結局ぼくと桔梗さんはそのやり方を知らないままに「王の影」とやらを探すことになった。

 あまりに謎めいていて、抽象的で、理不尽きわまりない要求のように思われた。

 要求を突っぱねて帰ろうとしてみたが、入口では部下たちが厳重に見張っていて通れない。どうやらぼくらには拒否権きょひけんというものが与えられていないらしい。

 得体の知れない老人の主張するところによると、その影はこの洞窟のような施設のどこかにあると言う。

 しかし、その「王の影」とはどのくらいの大きさなのか、どういう形状をしているのか、またそれを他の影から区別する基準は何なのか、そもそもそんな影が本当に存在するのか。

 あらゆる判断材料が欠けている。一切の具体性が捨象しゃしょうされている。

 

 ぼくと桔梗さんは心底途方に暮れつつも、お互いに手分けして、ひんやりとした施設の内部をくまなく歩き回る。歩き回る。歩き回る。

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