第30話 もはや冗談が通用する段階は過ぎ去った
その日の朝早く、ぼくはすみれちゃんからの電話で目を覚ました。ゆうべから桔梗さんと連絡が取れないと言う。
「念のために研究所にも連絡を取ってみたけど、誰もパパの居場所を知らないって言うの。お兄さん、何か知らない?」
ぼくは涙声の彼女を落ち着かせるように、ゆっくりとした声で語りかける。
「とりあえずぼくの方でも心当たりを当たってみる。しばらくしたらもう一度連絡するから」
一旦すみれちゃんとの通話を切り、ぼくは桔梗さんのスマホに着信を入れてみる。しかし桔梗さんには繋がらない。メールも送ってみたが返信はない。『影はがし』の研究所にも連絡してみたが、すみれちゃんの言うように誰もゆうべ以降の桔梗さんの足取りを把握している人はいなかった。
ぼくは自分に取り得る桔梗さんへのコンタクトの方法をひとしきり試し終えたあと、努めて冷静になるよう自分自身に呼びかける。
落ち着いて考えてみよう。
そういえばゆうべ、食事を終えた頃に桔梗さんからぼくのスマホに動画が送付されてきた。撮影された場所は、あの老人が自らを
もちろん、その動画が撮影されたのがゆうべだとは限らない。
確たる証拠はないし、すでにその施設には先ほどぼくが確認の連絡を入れてある。やはり桔梗さんはいないとのことだ。
しかしぼくは何となく心に引っかかりを感じる。ゆうべ送られてきた動画と桔梗さんの失踪という事実との間に、根拠のない
ぼくは何かの糸に導かれるように大急ぎで着替えを済ませ、顔を適当にお湯で洗う。
準備を済ませ、玄関に向かおうとしたところで、寝室から狐少年が顔を覗かせた。
「お兄さん、そんなに慌ててどこに行こうっていうの?」
「ちょっと用事が出来たので出掛ける。悪いけど食事は適当に済ませてくれ」
玄関でくたびれた紺のスニーカーを履き、ドアを開ける。早朝のひんやりとした空気が肌に触れる。しかしぼくはそこから先に進めない。室内と外界を
ぼくはその中の一人が、昨日、あの老人の施設を訪れた時に、ぼくの前に立ちふさがった男と同一人物であることを察した。ぼくはその男に向かってこう言葉を発する。
「これは……どういうことですか?」
間髪入れずにその男が返答する。
「あなたがこれからどこに行き、何をされようとしているのか、我々はそれを全て知っています。しかし今となっては全て無意味なことです。それに時間もありません。我々はその『無意味なこと』を阻止するために派遣されました。あなたには我々と行動を共にしてもらいます」
「ぼくはこれからコンビニに朝食を買いに行くつもりなんですが、それを阻止するのがあなた方の仕事なんですか?」
「もはや冗談が通用する段階は過ぎ去っております。素直に従って頂けるならば命だけは保証致しましょう」
ぼくは観念した。その男の淡々とした喋り方からは一切の誇張が感じられなかった。そのことによってぼくは最も効果的に脅迫されていたと言って良い。それはつまり、素直に従わなかったならば、即座に命の保証はなくなるという意味での心理的圧力だった。ぼくは心臓が
その時、部屋の中から狐少年がぼくに呼びかける声が聞こえた。ぼくはさらに心臓が高鳴った。
「お兄さん、まだいる? 朝食ってポテトチップスでもいいのかな。……誰ですかあんたたち?」
その後、ぼくと狐少年の翔太くんは黒スーツの男たちに囲まれながら誘導され、マンションの階下に駐車されていた数台の自動車に乗り込まされた。
ぼくはこの上なく緊張して指先まで小刻みに震えていたが、翔太くんはキョロキョロと車内を見回したり、黒スーツの男達に他愛なく話しかけたりしていた。
「おじさん達すごい車に乗ってるね。これからどこに行くのかな? これってもしかして誘拐ってやつ? でもお兄さんの実家はあまり裕福な方でもないらしいから身代金は期待しない方がいいと思うよ。ところでお腹空いたから途中でコンビニに寄ってもらえないかな。ちょうど今サンドイッチの割引キャンペーンやってるから、いつもなら買わないちょっと高めのを買ってみたいな。ねえおじさん聞いてる?」
運転席と助手席に座っている男二人は狐少年の話にガン無視を決め込んでいたが、次第にうんざりと言った口調で「どうしてこんなのを連れてきた」「上からの指示でしかたなく」という会話を小声で交わしていたようだった。
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