第29話 てっきり18禁動画かと思った

 ぼくはその動画をもう一度はじめから再生し、ゆっくりと頭に刻みつけるように視聴した。老人のささいな発言も聞き逃すまいとするように。

 動画を半分ほど流し終えた辺りで、ぼくの肩越しに狐少年の翔太が覗き込んでいることに気付いた。

「さゆりさんは先に部屋に戻ってるって。……そのおじいさん誰?」

 ぼくは思わずスマホを裏返した。

「いつ入ってきたの」

「いちおうノックはしたんだけど。すごく熱心に観てるからてっきり18禁動画かと思ったよ」

 そう言って笑う狐少年の顔を、ぼくは初めて見るもののように眺めていた。


 それからあらためて翔太くんに動画の老人の静止画を見せてみたが、とくにかんばしい反応は得られなかった。

「よくわからないな。あなたもご存知の通り私には記憶というものがないからね。仮に会っていたとしても思い出せないと思うよ」

「君はハンナのことは覚えていただろう」

「多分ハンナのことは例外だと思う。私にとってそうとう重要な記憶に関わってるんだろうね。でもそれ以外はまず思い出せない」

 ぼくはおそるおそる訊いてみた。

「梢……という女性のことを知らないか?」

「梢?」

 狐少年は眉間みけんにしわを寄せた。そうしてひとしきり何かを考えるそぶりを見せたが、「……やっぱり思い出せないな。梢さん? でもとてもいい名前だね。その人が私とどういう関係なの?」

 ぼくは答えるのをためらう。


 結局、ぼくはその動画の内容をまだ狐少年に明かさないでおくことにした。今の段階ではぼく自身の考えも整理出来ていないし、第一その老人の話す狐少年が『ここ』にいる翔太くんと同一人物という確証も得られていないのだ。

 もっとも、もし仮に両者が同一人物だというのなら、これほど荒唐無稽こうとうむけいな話もないだろう。三四半世紀さんしはんせいきも前にいたはずの人物が、現在の時間軸においても同じ姿で活動していることになる。狐少年に影がないからといって、そんなことがありうるだろうか。

 それに老人の告白に登場するハンナと、ぼくやさゆり姉といっしょにいたハンナが同一人物であるという仮説もにわかには信じがたい。獣人の歳の取り方は、基本的に人間とそう大差はないはずだ。

 もし仮に両者が同じハンナであるとするならば、およそ六十年もの間、

 単なる偶然と決め付けるには、一連の事件には妙な符合が見られなくもない。

 考えれば考えるほどに思考は乱脈らんみゃくきわめてくる。ぼくはベッドの上で寝返りを打ちながら、眠れない夜を過ごす。


 暗闇の中でふと見ると、寝室のドアが少し開いているのがわかった。誰かがその入口でたたずんでいる。ぼくはその気配に呼びかける。

「……翔太くんか?」

「……うん」

 狐少年は消え入りそうな声で呟いた。「何となく今日は、さゆりさんといっしょに寝るのが怖いような気分なので、その、こちらで寝てもいいかな?」

「それはいいけど……何か思い出したの?」

 翔太くんはその問いには答えず、静かにぼくの寝床にもぐり込んだ。もぞもぞと動くうちに、ふさふさの尻尾の感触がぼくの足の辺りにまとわりつく。ハンナがいなくなって以来の感触に、何となく懐かしみを感じた。


「いつのことだか忘れたけど、毎日のように図書館に通った時期があるんだ」

 寝室のベッドの上で、唐突に狐少年がそんなことを口にした。

「図書館って、あの図書館?」

「そう、あの図書館」

 吐息といきのかかるような顔の近さで、狐少年とぼくは言葉を交わす。「住所や名前がないから本は借りれなかったけど、入るだけならタダだし読むだけなら好きなだけ読むことが出来たからね。その間、いろんな本を読んでいろんなことを考えた。その沢山の本の中に、詳しい内容は忘れたけど、チンギス・ハーンについてのものがあった。モンゴル帝国の初代皇帝として知られてるけど、彼の孤独な青年時代についてその本はこう表現していた。『影よりほかにともなく、尾よりほかむちなし』」

 一語一語を区切るように、狐少年はその言葉を発音する。影よりほかに伴なく、尾よりほか鞭なし。

「その時私は、とてもロマンティックで詩的な表現だと思った。影以外に自分に付いてくるもののない孤独がよく表れている気がした。それと同時にこんな風にも思った。人間はどんなに辛い、孤独な、厳しい状況下においても、少なくとも影はある。影だけは彼の行くところどこへでも付いてくる。影は何も語らないけど、彼の言うことやすことの全てを目の当たりにする。それは生まれてから死ぬまで続くんだ。どんなに孤独な人間でも、影からは逃れられない」

 ぼくは黙ってその話に耳を傾けている。

「でもそうすると、影のない私の孤独って一体何なんだろう」


 その狐少年の言葉に答えられずにいると、いつの間にか彼は静かに寝息を立て始めていた。

 ぼくは暗い天井をぼんやりと眺めながら、ほんの数分「影のない孤独」というものについて考えてみた。けれども結局の所ぼくにはよくわからなかった。脳裡のうりにいくつかの形にならないイメージが泡のように浮かんでは消え、次第にぼくの意識もゆるやかな眠りへと落ちていった。



   〇



 主任研究員の桔梗さんが行方不明になったという知らせを娘のすみれちゃんから貰ったのは、空が白み始めた翌朝早くのことだった。

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