第27話 見る者と見られる者はいずれ入れ替わる
狐少年は気が進まないと言っていた。看護婦の梢もそんなことを彼にさせたくない、と泣いていた。
しかしどうせやらなければならないのなら、見知らぬ女性とやるよりは梢と「それ」を行うことを彼は望んだ。梢もそれを選んだ。
私は身を引き裂かれる思いだった。私には何も出来なかった。
〇
梢のお腹の中の赤ん坊が日に日に大きくなるにつれて、戦局はいよいよ厳しさを増してきた。沖縄が
その年の八月、梢は女の子を出産した。狐少年と同じように、金色の獣耳と尻尾が
赤ん坊は母体と引き離した上で、早速実験が行われる予定だったらしい。「だったらしい」というのは、もはやそんな実験をする余裕が部隊に残されていなかったからだ。
アメリカの新型爆弾が二発、広島と長崎に投下されたと私にも知らされた。私は直観的に原子力を利用した爆弾であることを察した。被害は
部隊長から、私の部署で管理している全ての化学物質、実験報告、機材、その他もろもろの「証拠」を処分せよとの命令が下された。
そして「処分」の対象は、収容されている被験体の全てに及んだ。
私は化学物質をトラックに運び込ませ、あらゆる書類や機材を施設の外でガソリンを掛けて焼却し、最後に狐少年の部屋に向かった。
被験体の収容されている部屋は例外なく
私は狐少年に、何か言い遺すことはないか、と訊いた。
狐少年は自分の死を悟っているような表情でこう言った。
『梢さんと赤ん坊はどうなるの?』
私はこう答えた。
『梢さんは無事だろうが、子どもは処分することになる。証拠は一切残すわけにはいかない』
狐少年は憎しみのこもった目つきで私を
『あなたたちは勝手だ』
『何とでも言ってくれ。私が持っているのは君たちを助ける権利ではなく、殺害する義務だけなんだ』
『あなたは梢さんをぼくに奪われたことを根に持っているんだ。だからこんなことが平気で出来るんだね』
『言いたいことはそれだけか。もう行くぞ』
『娘の名前を決めたんだ』
狐少年が覗き窓の向こうで立ち上がった。『ぼくには名前がない。物心ついた時にはひとりぼっちだった。誰もぼくに名前を付けてくれなかった。あなたたちもぼくを番号でしか呼ばなかった。こんな思いを娘にはさせたくない。だからぼくは娘の名前を付けた。あなたたちが殺そうとしているのは匿名の番号なんかじゃない。名前のあるかけがえのない命なんだ』
『もうよせ』
私は
『娘の名前は……ハンナだ!』
私は覗き窓を閉じ、鉄製のシャッターを下ろす。内部ではなおも名前のない狐少年が何かを叫んでいる。『梢さんもハンナも、あなたたちの好きにはさせない。あなたたちなんかに渡すわけにはいかない。今閉ざされた部屋の中にいるのはぼくだ。だけどいずれあなたたちの側が閉ざされた部屋で苦しむことになる。見る者と見られる者は入れ替わる。必ずそうなる!』
私は彼が狂ったのだと思った。私は耳をふさぐようにしながら、毒ガスのスイッチを叩くように押した。
〇
それから私は
彼女たちの部屋の粗末なベッドの上に、二つの黒く薄っぺらい何かが残されていることに気付いたが、検証する暇もなく、そのベッドもろともガソリンを掛けて焼いてしまった。
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