第23話 お兄さんは変わってませんね

 狐少年の翔太くん(仮名)がさゆり姉の部屋に転がり込んでから二週間が過ぎた。相変わらずハンナは見つからないままだ。

 

 その日、ぼくは近所の喫茶店でとある人物と待ち合わせをしていた。予定より少し早めに来てしまったので、ぼくはスマホを操りながらここ数週間の官報かんぽうの記事に目を通していた。幸いにも、そこにハンナと思わしき獣人の記事はなかった。これで最悪の可能性をつぶしているという意味を感じることは出来たが、心底気の進まない作業だった。

 喫茶店の扉が開き、カランカランという旧式の鈴が鳴る。ぼくの席に向かって見覚えのあるポニーテールの少女がしずしずと歩いてきた。ぼくは軽く手を挙げて合図する。

「すみれちゃんだね、久しぶり」

 制服姿の少女は微笑みながら、ぼくの目の前の椅子に腰を下ろす。

「お久しぶりです。お兄さんは変わってませんね。すぐわかりましたよ」

「この前会ったのは、確かすみれちゃんが十歳の頃だったかな。桔梗ききょうさんの頼みで勉強を教えたりしたっけ。大人っぽくなったね」

 すみれちゃんがふと目をそらしてメニューをパラパラとめくり始めた。


 ぼくが高校に入ったばかりの頃に、桔梗さんの頼みで小学生の娘さんの勉強を見てやったことがある。その子がすみれちゃんだ。その当時は確か「お兄ちゃん」と呼ばれていたように記憶しているのだが。


 ぼくはブレンドのコーヒーをちびちびと飲みながら、すみれちゃんが持って来てくれた資料に目を通している。彼女はぼくのおごりで数種類のフルーツがトッピングされたリコッタパンケーキを上品に口に運んでいる。この喫茶店の目玉らしい。そういえばお昼のワイドショーに取り上げられたことが店頭の看板にポップな字体で書かれていたようだった。

 資料にざっと目を通してから、ぼくはすっかり冷めているコーヒーの余りを胃に流し込んだ。ちょうどすみれちゃんもパンケーキの最後の一切れを名残惜しげに食べ終えたところだった。ぼくは彼女にこう訊いた。

「すみれちゃん、桔梗さんはこの資料について何か言ってた?」

 紙ナプキンで口元をぬぐいながら、彼女はこう答えた。

「お兄ちゃ、いえお兄さんにこの資料を渡してくれと言われただけでした。どうして自分で渡さないのかと思いましたけど、最近忙しいみたいだから、そのせいかなと思います。何でも関連施設に入院している末期患者のお世話をしなきゃいけないとか」

「ふうん」

 ぼくは改めてその資料に目を向ける。

 その資料はとある末期患者の記録だった。年齢は九十歳をとうに越えている男性で、経歴の項目を見ると社会的にかなり高い地位にあることがわかる。既往歴きおうれきの欄は彼がそれまでの人生で関わってきたあらゆる病気の名称で塗りつぶされており、既に余命宣告もされているらしい。

 その彼がどうして「影はがし」の関連施設に入院しているのか。答えは簡単だ。彼の影が二つになっているからに他ならない。

 そして、彼自身の意向で「もどき」の影ははがさないという方針を貫いている。本人が話したがらないため理由は不明だが、その状態はかなり長く続いており、もう十年も隔離施設かくりしせつの個室に留め置かれているらしい。


 桔梗さんがどういう意図でぼくにこの資料を見せることにしたのか、よくわからないところがあった。そもそも患者の個人情報など簡単に人に見せていいものではないだろう。

 加えて、資料に太平洋戦争当時の、老人の軍歴証明書のコピーが添付てんぷされていることも謎めいていた。履歴書のような形式の紙に「編入」「転属」「入営」などの単語が部隊名といっしょに、時系列にしたがって記載されている。この辺の知識や教養に欠けているのでうまく読み解けない。

 しかし桔梗さんが意味のないことをするとは思えない。だとすると必ず何かしらの意味があるはずだ。

 そこで思い当たるのは、先日桔梗さんから聞いたあの「廃墟」の話。憶測の域を出ないという話だったが、戦前の陸軍が管理していたという噂。

 好都合なことに、この患者の入院しているという施設はここからそれほど遠くはない。



   〇



 ぼくはコーヒーとパンケーキの会計を済ませてすみれちゃんと別れたあと、その足で駅に向かい、末期患者の老人の入院しているという施設へと赴いた。

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