翔太くんはマッサージがお上手
第22話 すっごく良かったゆうべのあれ
翌朝、ぼくはカーテンの隙間から射し込んでくる朝の光と、壁の向こうから聞こえて来る水の音で目が覚めた。浴室で誰かがシャワーを使っているらしい。
ぼくが洗面所で軽く腫れた顔を洗っていると、ちょうど浴室の中から裸の狐少年が出て来た。
「お兄さん、バスタオルないかな?」
ぼくは棚に置いてあったバスタオルをつかんで手渡した。
「ゆうべはさゆり姉さんの部屋に泊まったんじゃなかったの」
「あそこのお風呂場があんまり綺麗じゃなかったんだ。悪いけど勝手に使わせてもらったよ」
濡れそぼった尻尾から雫が滴っている。足拭きマットの上に狐少年の影は、やはりない。
キッチンのテーブルにトーストとヨーグルトと紅茶を二人分置き、影のない狐少年と一緒に遅めの朝食をとる。影はなくてもお腹は減るらしい。
「そういえばさゆり姉さんはまだ起きてないのかな?」
ぼくはバターをたっぷり塗ったトーストをかじりながら、狐少年に訊ねる。
「まだ疲れてて寝てるみたい。あまり激しくしたつもりはなかったんだけどな」
「……」
何を激しくしたつもりがなかったのだろう、と思ったが訊かないことにした。
朝食の皿やコップを洗い終えてから、ぼくは狐少年と昨日の話の続きをし始める。その時、彼はリビングのソファに座りながらテレビのワイドショーをまったりと観ていたが、強制的に消させた。不服な様子だったが、ハンナの影を収めた本を見せると急に神妙な態度になった。
「これがハンナの影だ。数日前、この影を残して彼女はいなくなってしまった」
狐少年はその本を手に取り、中身をしげしげと眺めたり、鼻を近づけて匂いを嗅いだりしている。ぼくは続けてこう訊ねる。「その影から何かわかることはないか?」
彼は真剣な様子でその本をつぶさに点検し、こう言った。
「この影は間違いなくハンナのもののようだね。匂いは限りなく薄くなっているけど確かにハンナの匂いがする」
「そうか」
「でも残念ながらそれ以上のことはわからないよ。ただひとつ気になる匂いが混じっていること以外は」
ぼくは身を乗り出した。
「気になる匂い?」
狐少年は眉を顰めながら、手で鼻をさすっている。
「匂い、というより……何かピリピリするものを感じる。さっきから鼻がピリピリしてる。よくわからないけど電気のようなものに近い気がする。ほんの少しだけど、強くなったり弱くなったりしている」
ぼくはその言葉を口の中で反芻する。ピリピリする電気のようなもの、強くなったり弱くなったりしているもの。
何度目かの反芻の後で、自分が何かを忘れているような気分がした。記憶の中で何かが頭をもたげようとしていた。けれどもそれは姿を現さない。形にならないもどかしさをぼくは感じる。ぼくは一体何を忘れているのだろう。それが重要なことのようにも思えるし、大したことではないような気もする。
ぼくはしばらく黙ったまま考え込んでいたが、玄関から聞こえたさゆり姉の声に思考は中断される。
「ああ、
狐少年は軽く手を振る。翔太くん?
「翔太くんって何?」
ぼくが訊ねると、さゆり姉は笑いながら、
「ショタだから翔太くん。名前がないと不便でしょう」
安易なことこの上ないと思ったが、異論は挟まないことにしておく。
「ところで翔太くん、ゆうべのあれ、すっごく良かったわ。もう最高だった」
心なしか、さゆり姉の肌ツヤがいつもより良いことに気付いた。ゆうべのあれ?
「それは光栄の至り。またして欲しくなったら言ってね。さゆりさんのような美人なお姉さんならいつでも大歓迎だよ」
「うふふ、お上手ね」
その会話から何となくオチが読めたので、とりあえず訊いてみた。
「ねえさゆり姉、ゆうべのあれって?」
彼女はキョトンとした顔でこう答えた。
「マッサージ」
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