第20話 私の盗まれた影はどこにある?

 家に帰る気も起こらないまま、ぼくはあてもなく街中をさまよっていた。


 盛り場をふらついていたら客引きに何度かそでを引かれたが、例外なく無視してそのまま歩き去った。週末のせいか人が多い。ぼくは人混みに巻かれたせいで気分が悪くなり、人気のない裏通りをぼんやりと行ったり来たりしていた。

 何となく酔いたくなり、適当な自販機でビールを買うと、道端みちばたに座ったまま少しずつ飲んだ。苦いだけで味がない。それでもアルコールは体中を巡ってふわふわと浮かぶような心持ちになれた。

 その場所で一缶ひとかん飲み干そうという時に、裏通りを数人の人影が陽気にり歩いて来るのが見えた。そして脈絡みゃくらくなく声を掛けられたが無視をしていたら、ふところの本を誰かが取り上げたのに気付いた。

 ぼくはほとんど無意識のうちに立ち上がり、本を取り上げた人物の顔をこぶしで殴る。地面に落ちた本を拾い上げると、別の誰かに腹を蹴られたらしい。うめくようにその場に丸くなる。体のあちこちに鈍い衝撃が繰り返される。ぼくは赤ん坊のようにされるがままだが、この本だけは渡すまいと必死にかばっている。


 それからどこをどう歩いたのか記憶にない。気がつくと痛みだらけの体をひきずりながら、ぼくは家の近くの公園まで這うように歩いていた。

 街灯に白々しらじらと照らし出されたベンチに腰を掛ける。顔を手でぬぐうと、かすかにベトベトしたものが流れているのがわかった。血のようだ。この様子だとずいぶん男前になっているだろう。酔いもすっかり醒めてしまった。


 それから何時間ほどその場所にいただろうか。もしかするとほんの数分だったかも知れない。何となく公園の外れの方に視線を向けると、人影がひとつ、こちらを向いたままじっと立っていることに気付いた。それは少しずつぼくの方に歩み寄る。街灯に照らされ、その輪郭りんかくが鮮やかに浮かんだ。

 その人物は幼い少年のような風貌ふうぼうをしていた。どうしてこんな夜中に子どもが、と思ったのも束の間、その人物はぼくに声を掛けてきた。



「大切なものを盗まれてしまったんだけど、お兄さん知らない?」



 ぼくはしばらくのあいだ、その質問が自分に向けられたものだと気付かなかった。ニ、三度同じ質問が繰り返され、ようやくぼくは返答する。

「大切なもの……お兄さんも盗まれたような気がする」

「お兄さんのことは訊いてないよ。あくまで私のことだから」

「君が何を盗まれたのか、ぼくが知るわけないだろう。人に質問をする時は、その質問に具体性を持たせるべきだ」

 少年はそれもそうだと言うように、含み笑いをする。

「じゃあ質問に具体性を持たせるね。お兄さん、私の盗まれた『影』がどこにあるのか知らない?」

「……影?」

 ぼくはいぶかしげにその少年を見つめる。さっきまでは気付かなかったが、少年の頭頂部に獣人特有のけもみみが見受けられた。背後にはこんもりとした尻尾もある。

「君は……獣人か。影を盗まれたって……、どういうことだ?」

「言葉どおりのことだよ。この街灯の明るさならわかるでしょう。百聞は一見に如かず、どうぞご覧あれ」

 そう言って少年は街灯の下に身をひるがえした。街灯に照らされたけもみみと金色の尻尾がきらりと反射した。少年の足元に、彼の影はなかった。


 ぼくは信じられないものを見る心持ちで、その影のない狐少年をまじまじと眺めた。そして、彼はこんな質問もしたのだった。


「そういえばお兄さん、私と同じ獣人のハンナって女の子を知らない? 多分この辺にいると思ったんだけど、匂いが途切れてしまってわからないんだ」

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