影のない狐少年との出会い

第19話 意味を通わせる記号も、温かい言葉もなく

 桔梗さんはそこまで話すと、ため息を吐きながら両手で顔を覆った。そしてぼそりとこう言った。

「以上が十数年前に私が経験し見聞けんぶんしたことのあらましです。このことは関係者のあいだでも限られた者しか知らないことです。上の方からの指示で箝口令かんこうれいが敷かれたというのもありますが、あの場所が心ない、不特定多数の人物たちの手で荒らされることを恐れたのです。長いこと君に黙ったままでいて、本当に申し訳ありません」

 彼はソファに座ったままの姿で、ぼくに向かい深々と頭を下げた。

 ぼくはしばらく呆然ぼうぜんとしていたが、語られた言葉をゆっくりと現実に手繰たぐり寄せようとする。魚影ぎょえいの群れに放り投げた魚網ぎょもうを、漁師が少しずつ船の甲板かんぱんに引き上げるように。そしてぼくも言葉を口にする。

「……薄々勘付いてはいましたが、桔梗さんに『影はがし』の能力があることは初めて聞きました」

 初めて会った時から、影の扱い方に詳しいとは思っていた。

「……いろんな実験もさせられました。『もどき』の影ははがさない限り宿主しゅくしゅにくっついたままですが、高熱を併発した場合に限り、ごくまれに消滅することもわかりました。そして宿主は『影はがし』ができるようになる。ご存知のとおり、その確率は非常に低いものですが」

「けれど高熱を併発した場合、致死率もかなり高い」

「そのとおりです。高熱が出る確率もかなり低いものですが。専門家のあいだでは何らかの抗体ができあがるのだろうという意見で一致していますが、依然としてそのメカニズムは謎のままです」

 わかりきった話だ。そんなことは小学生の頃にさんざん勉強した。問題は別のことだ。

「桔梗さんの奥さんやハンナのように、……影だけを残して消えた人は他にもいるんですか?」

 桔梗さんは首を横に振る。

「私の知ってる限りではいません。そしてあの時のように、感染者の人格が変容へんようするという例も、全くありませんでした。今日君からこの話を聞くまでは」

「もう一つ。その廃墟というのはいったい何だったんですか?」

「確かなことは何もわかりません。妻も噂以上の情報はつかめなかったようです。あの事件があってから私はあらためて私の責任において内部の再調査を実施しましたが、特に新しい事実は発見できませんでした。そして不思議なことに、妻が話していた『覗き窓のない部屋』というものがどこにも存在しなかったのです」

「存在しなかった?」

「扉のようなものがあった痕跡こんせきはありました。しかし扉によって区切られた空間がなかった。私が再調査をする前に、何者かの手によって注意深く撤去されたとしか考えられません。もっとも、非公式には調査隊の見間違いだろうということになっています。けれど私は信じていません。扉は確実にあったのです。私はそう確信しています」


 ぼくは「もどき」の影を収めた本を桔梗さんに手渡し、何か進展があったらすぐぼくに連絡してくれるよう彼にお願いをした。それから廃墟の具体的な場所を教えて欲しいとも頼んだが、それに関してはこころよ承諾しょうだくを得られなかった。

「少し考えさせて下さい。私と同じように君も抗体を持っているので、めったなことにはならないかもしれない。けれどあそこは危険な場所です。われわれの常識では測れない場所です。何か起こった場合、君だけの問題では済まなくなる。それだけは心得ておいて下さい」


 研究所の玄関を出ると、世界は夕焼けのあかに染まっていた。血のように真っ赤な空だ。

 ぼくはその夕焼け空を眺めながら、路上に立ち止まり、先ほどの話を思い返していた。思い返すことはいくつもあった。しかしどんなに想念を巡らしても、ぼくにはぼくが何をすべきなのかがわからなかった。

 ぼくはハンナの影を収めた本を開いてみる。全てのページが塗りつぶされたように真っ黒だ。そこには意味を通わせる記号もなく、温かい言葉もなかった。呼びかけても応える声はなかった。


 どうしてこんなやまいがあるのだろう。そう思った。どうしてこんな病にぼくらは振り回されなければいけないのだろう。こんなもののためにぼくらは、どうして大切な人まで失くさなければならないのだろう。世界にとって人間など取るに足らないものなのだろうか。ぼくらの声が届く場所などどこにもないのだろうか。

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