第17話 それまでの自分がどれだけ孤独であったか

「私の妻は……私と同じ研究所の研究員でした。まだ影が二つになる奇病が流行する前の話です」

 桔梗ききょうさんはそこで言葉を切り、いったん窓の外に視線を移した。まるでその話を続けるかどうかを迷っているかのように。その視線の先にある秋の空は晴れていて、高かった。ぼくもその視線の先を一緒に眺めながら、桔梗さんの言葉の続きを待ち続けた。

 やがて、桔梗さんが語り始めた。


「妻は……優秀な研究員でした。おそらく私よりも。私たちは同じ大学のゼミで知り合い、お互いにいろんなことを話し合いました。その時まで私は、この分野で私以上に優秀な人間はいないと自負していましたから、多少の嫉妬しっとがあったことは否めません。それでも、彼女の才能に惹かれる気持ちの方が強かった。

 そして彼女は私を一人の人間として見てくれる数少ない存在でした。ご存知のとおり、私は性別的には男性ですが、幼い頃から男性の格好や振る舞いにどうしてもなじめませんでした。そのことで周囲とどれくらい軋轢あつれきがあったかわかりません。しかし彼女はそんな私をまるごと受け入れてくれました。私は彼女と出会って初めて、それまでの私がどれだけ孤独であったのかを知ったのです。

 私たちは同じ研究所で働き始め、やがて子どもに恵まれました。順序は逆になりましたが、それから私と妻は結婚し、所帯しょたいを持つようになりました。その子がすみれです。多忙な日々でしたが、私は幸せでした」

 桔梗さんの目がうるんでいるように見えた。


「妻の育休が終わり、彼女が職場に復帰した頃のことです。とある筋から私たちに依頼がありました。要領を得ない依頼でしたが、何でも戦前の陸軍が管理していた施設の調査をしてほしいとのことでした。今では廃墟になっていて誰も近づかないような場所にある施設です。聞いたことのない名前でしたが、妻が独自に調べたところによると、何かの化学的な実験を行っていた部隊が極秘に管理していたという噂がまことしやかに囁かれていました。

 調査チームが編成され、妻と他数名が調査に赴きました。私は復帰したばかりの妻にそのような仕事をさせるのは気が進みませんでしたが、妻はどうしても自分で行きたいと言って聞きませんでした。仕事の空白期間を埋めようと、彼女なりに焦る気持ちがあったのかも知れません。私はくれぐれも無理だけはしないようにと言いました。

 翌日、何となく落ち着かない日を過ごした後の昼過ぎでした。研究室の電話に調査員からの着信が入りました。何事かと思いながら出てみると、泣きながら『わけがわからない』『とんでもないことをしてしまった』と彼が言うのが聞こえました。興奮しているらしく、話はほとんど要領を得ませんでしたが、明らかに異常な事態が起こっているということだけはわかりました。妻の携帯は繋がりませんでした」

 そこまで話し、桔梗さんは目の前のコップの水をひと口飲んだ。そして、また話し始めた。


「しばらくして、すぐに現地へ私を含む救助隊のヘリコプターが派遣されましたが、そこは見るも無残な有様でした。私の妻と他の調査員一人が、廃墟の入口辺りで血を流して倒れていたのです。私は妻に駆け寄りました。妻は後頭部に怪我をしていましたが、見た目ほどの傷ではなかったようです。調査員は一人が既に死亡しており、もう一人が震えながら涙を流していました。

 私たちは亡くなった調査員の亡骸なきがらと震えて泣き止まない調査員と怪我を負った妻を保護し、ヘリコプターで救急病院に搬送はんそうしました。途中で意識の戻った妻がこう言いました。


『影が二つ……』

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