反復される悲しみと怒り

第16話 その影は何も応えてはくれなかった

 ハンナが影だけを残して消えたその日、ぼくとさゆり姉はずっと彼女の姿を探しまわった。家の中をぐるぐる歩きまわり、マンションの階段を何度も往復した。それから近所の街角や路地を行ったり来たりした。警察に保護されていないかを確認したが手がかりはなかった。そしてまた家に戻った。けれどハンナはどこにもいなかった。彼女は煙のように消えてしまったのだ。


 そのうちに日が暮れて夜になった。ぼくらはそれぞれの部屋に戻り、互いにハンナを見つけたらすぐに連絡することを約束し合った。さゆり姉は目に見えて憔悴しょうすいしていた。


 ぼくはふらつく足で寝室に戻り、ベッドの上に置き去りになっていたハンナの影を手に取る。そしてしばらくじっとそれを見つめていた。まるでその影から発せられるしるしを、一言一句いちごんいっく見逃すまいとするかのように。しかし影は何も応えてくれなかった。それはもはや黒く薄っぺらい何かに過ぎなかったからだ。

 ぼくは本棚から一冊の白紙の本を取り出し、そこにハンナの影を折り畳むように収納した。ちょうど窓の外から強い風鳴りの音が聞こえた。台風が近づいているらしい。風の中に雨が混じり始めた。ぼくはその日、ハンナがいつ帰ってきてもいいように、玄関のドアを開けたままにしておいた。だけどどんなに耳を澄ましても、聞こえてくるのは窓を叩く雨の粒と風の音だけだった。夜が明けてもハンナは戻っては来なかった。


 いったいハンナはどこに行ってしまったのだろう。どうして影だけを残していなくなってしまったのだろう。



   〇



 翌朝、ぼくはさゆり姉の「もどき」の影を収めた本と、ハンナの影を収めた本を持って「影はがし」の研究所に赴いた。マンションの廊下や道路には昨夜の台風がもぎ取った大量の枝葉やゴミが撒き散らされていた。大気は澄みわたった秋の色に染められており、夏という季節が終わりかけていることをひしひしと感じた。

 途中、ぼくは駅前のコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、ロータリーにえ付けられているベンチに腰を下ろした。正直食欲はなかったが、ゆうべから何も食べていない。機械的に、砂を噛むような心持ちでサンドイッチを口に運び、そうして苦いだけのコーヒーで胃に流し込んだ。

 それからぼくはしばらくのあいだ、多くの人の流れが駅の改札をくぐり、また吐き出されていく様子を眺めていた。そこには多くの表情があった。ひとつとして同じ顔はなかったが、ぼくにはそのどれもが同じ表情に思えた。その時ぼくがさがしていたのは、ただひとつ、ハンナの姿だけだった。時折、狐型の獣人が通りがかると、思わず腰を浮かしかけたが、もちろんそれはハンナではなかった。そんなことを三~四回ほどくり返してから、ぼくはあきらめたように駅前のロータリーを後にした。そして「影はがし」の研究所のある高い建物へと向かった。


 主任研究員の桔梗ききょうさんにはあらかじめ連絡をしていたので、すぐに出迎えてくれた。白衣姿の桔梗さんはぼくの顔を見ると、目に見えて気遣わしげな顔つきになった。

「メールは読みました。お察しします」

 誘導されながら、桔梗さん専用の研究室に通される。ぼくは本を二冊取り出した。

「これが例の影です。一冊は『もどき』の影。もうひとつが……ハンナという女の子の影です」

 桔梗さんは黙ってその本を受け取り、厳しい目つきでパラパラとページをめくる。

「確認のためにお訊ねします。この『もどき』に感染した患者は人格が豹変ひょうへんした。そうですね?」

 ぼくはこくりとうなづく。「そしてその後、別の人物が影だけを残して本体そのものが消えてしまった……」

 ぼくは胸がつまるような思いで、またこくりと頷く。

 桔梗さんはため息を吐いてから、やがておもむろに立ち上がった。そして、部屋の隅にある金庫を操作し、中から一冊の本を取り出した。

「これは……何ですか?」

 手渡された本は目に見えて古ぼけていた。

 桔梗さんはためらいながら、重々しく口をひらく。

「これは……、私の妻の影です。正確には、私の妻が消えてしまったあとに残されていた影です」

 部屋の中の空気がピンと張りつめたような気がした。


「そのハンナという女の子と同じように、以前、私の妻も消えてしまったのです。まるで煙のように、その影だけを残して」

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