第12話 いつもと違う、あまりよくない匂い

 幼い頃、桔梗さんに訊ねたことがある。

「桔梗さんは男なのに、どうして女の人の格好をしているの?」

 彼は困ったように苦笑いをした。そして、こう答えた。

「実を言うと私にもよくわからないんですよ。ただ、こういう格好でいるのが私にとってはいちばん自然なんです」

「自然?」

「はい、自然です」

 その何気ない、さらっとした物言いがほんとうに「自然」だったことを覚えている。


 

   〇



 桔梗さんとの問診や雑談が済んでから「影はがし」の研究施設を後にすると、夏の日はまだ高いところにあり、あちこちから蝉の声がけたたましく聞こえてきた。

 何となくぼくは地面に落ちているぼくの濃い影を見つめる。見つめるまでもなく、ぼくの影は今日も一つであることに変わりはない。


 ぼくは駅前を通り過ぎてから馴染みのスーパーマーケットに立ち寄る。異常なほどにエアコンの効いた店内で火照ほてった体を冷やしつつ、夕食の材料を買い集めた。自宅の冷蔵庫の中を思い出しながら、足りない食材も追加していく。無人のレジで清算する段になって、ハンナ御用達ごようたしのとろけるチーズがもうなかったことを思い出した(追加購入)。


 むわっとした外気のたちこめる街路を歩き、途中の横断歩道が青信号に変わるのを木陰で待っていると、背後の公園で子どもたちの笑い声が聞こえた。

 五、六人の子どもたちがはしゃぎながら、公園の敷地内で何かに興じているのがわかった。

 ぼくは横目でそのありさまを眺めるともなく眺めていたが、唐突にそれは訪れた。

 初めは何が起こったのかもわからなかった。次第に違和感がおりのように心を満たしていくと、少しずつ意識がそのことを認め始めていた。

 どうやらその子どもたちは、この炎天下で「影踏み」をして遊んでいたらしい。互いの影を踏もうとすると、影があわてて跳びはねるように動く。それ自体はよくある遊びだから特に何の問題もない。ぼくが気付いたのはそこではなかった。

 ぼくはその子どもたちのうちの一人に目を向けた。その子どもは他の子どもたちのちょうど中心に位置しながら、他の子どもと同じように体をゆすって跳びはねている。

 そして、


 横断歩道が青に変わり、信号機の音響が「故郷の空」のメロディを流し始めたことでぼくはわれにかえった。

 あらためてよく見ると、公園の子どもたちが追いかけていたのは「影」ではなくサッカーボールであったことがわかった。そしてすべての子どもたちに影が存在していた。影のない子どもなどどこにもいなかった。冷静に考えれば当たり前のことだった。そんな子どもがこの世に存在するはずがない。白昼夢でも見ていたのだろうか。

 ぼくはいつのまにか背中がじっとりと汗ばんでいた。



   〇



 自宅のインターホンを鳴らすとパタパタという足音がして、がちゃりとハンナが鍵を外した。

「あなた、おかえりなさい」

「ただいま……って新婚か」

 ぼくのツッコミも意に介さずに狐少女が懐に飛び込んでくる。ただでさえ暑いのに、けもみみの増幅効果でかなりきつい。「ハンナ、汗かいてるからそれはまた後で……」

「別に気にしない。あなたの汗の匂いは大好き」

 人目をはばかるようにぼくはドアの内側に体を滑り込ませる。


 やっとの思いでハンナを引きはがしてシャワーを浴び終えてから、ぼくはハンナに訊いた。

「留守中誰か来た?」

 ハンナはぼくが愛用しているコップによく冷えた麦茶を注ぎながら、

「さゆりさんが来た。いっしょにお昼ごはんを食べた」

「そうか。何か変なことされなかった?」

 さゆり姉はハンナに会うたびにあんなことやこんなことをしたがるのだ。

「それはいつものことだから気にしてない。ただ、今日のさゆりさんは何か変な気がした」

 気にしてないんだ。

「何か変? どういうこと?」

 ハンナはぼくに麦茶を手渡し、物思わしげに首をひねる。

「よくわからないけど……、いつもと違う匂いがした。あまりよくない匂いだった」

 ぼくは受け取った麦茶を飲みながら、ハンナの言ったことを頭の中で反芻する。いつもと違う匂い。よくない匂い。それは一体なんだろう。

 多分湿布でもしていたのだろうと、この時はあまり深く考えなかった。

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