真夏の健康診断と白昼夢

第10話 「何でもいい」は一番困る回答

 それから数週間が経過したある暑い日のことだった。

 この日の早朝、ぼくは「影はがし」の研究施設から送られてきたメールの着信音で目が覚めた。眠い目をこすりつつ確認したところ、今日は「影はがし」の仕事がないらしい。そのかわりに簡単な健康診断を行うので、時間が空いたら来てほしい、とのこと。

 唐突な着信音のせいで、同じベッドに寝ていたパジャマ姿(水玉模様)の狐少女も目が覚めたらしい。身をモゾモゾと動かしながら、次第に瞳の焦点が定まってきた。そしてぼくを見ながらボソッと、

「……おはようにゃん」

と呟いた。にゃん? 


 顔を洗ってからコンロで二人分のお湯を沸かし、マグカップでティーバッグの紅茶を蒸らす。ほどよく紅茶の成分が抽出ちゅうしゅつされるまでに、輪切りにしたバナナとヨーグルトをえて皿に盛る。後はトーストを焼けば朝食のできあがり。ちなみにハンナの分のトーストには、彼女の好みでとろけるチーズをのせて焼いている。

「「いただきます」」

 そう形式的に言ってからお互いに食事をはじめる。食事のあいだ、彼女はだいたい無言のまま目の前の料理をパクつくことに集中しているので、わが家の食卓には静謐せいひつが立ち込めているのが常だ。

「……(はぐはぐ)」

 けもみみがピクピクと揺れている。見ていて飽きない。


 食卓の上の皿が空になり、砂糖入りの紅茶をすすっているあいだに今日の予定を話す。

「というわけで、今日は少し早く帰れるかも」

「うん、わかった」

「何か食べたいものある?」

 ぼくが「影はがし」で遅くなる日(この時期は平日のほとんど)のハンナの夕食はさゆり姉と一緒か、もしくはレトルトということになっている。

 ハンナは少し考えてから、

「特にない。あなたが作ってくれるのは何でも美味しい」

と言った。まあ想定していたとおりの回答だった。こう言ってくれるのは嬉しいのだが、実のところ作る側にとっては一番困る回答だと実感する。

 紅茶を飲み干して、ふと今朝の違和感を思い出す。

「ところで……今朝のあいさつって何だったの?」

「……あいさつ?」

「その……おはようにゃん、ってやつ」

 ハンナもちょうどマグカップの紅茶を飲み干した。

「……さゆりさんから、こう言うとあなたが喜ぶと聞いたから。もしかして、イヤだった?」

 ぼくの顔を覗き込むように、ハンナが不安げな声色で訊ねる。純真な狐少女に何を吹き込んでいるんだあの人は。

 ぼくは返答に詰まりながら、

「別にイヤってわけじゃないけど……ちょっと心臓に悪いかも」

「心臓?」

「なんでもない。気にしないで」

 きょとんとした顔のハンナを尻目に、ぼくは大学へ行く準備を進める。今日の講義は午前中だけなので気楽だ。くだんの健康診断とやらを済ませたら、最寄のスーパーで夕食の買物でもするとしよう。

 それからぼくは玄関でくたびれかけているこんのスニーカーを履いて、愛用の黒のトートバッグを肩にかける。ハンナは玄関マットの上に立ちながら、長いあいだの習慣のようにぼくを見送る。

「じゃ、いってきます。冷蔵庫の中のものは何でも食べていいから」

 ぼくはハンナの頭に手を置いて、ニ三回軽くなでてやる。ぼくが出かける時の彼女が例外なくさびしそうにしてるので、こうするのが半ば日課になっているのだ。

 彼女は軽くうなずいて、言った。

「うん……、いってらっしゃい」



   〇



 その後、ぼくは大学で九十分の講義二つを聴講し終えたあと、構内の学食で一杯三百円のきつねうどんを食べてから「影はがし」の研究施設へと向かった。

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