第6話 この影はこの世のものではない

 ぼくが小学校に入って間もないころのことだ。

 ある日、いつものように登校しようとしたら、自分の影が二つあることが発覚した。気付いたのは母だ。かかりつけの医者に連絡をしたら、すぐに自宅待機を要請された。

 二、三日すると体のだるさとともに高熱の症状が出た。朦朧もうろうとした意識のなかで、母があたふたと駆け回っていたことを覚えている。後で聞いたところによると、一時は最悪の事態を母も覚悟していたらしい。

 その状態が二週間ほど続いたとある朝、ぼくの体調は嘘のように平常にもどっていた。体温計の数値は三十六度七分を示しており、流動食ばかりでじらされた胃袋が何かを切実に欲しがっていた。ぼくの影はもと通りの一つだった。


 それから検査につぐ検査を経て、ぼくはとある施設のとある患者の前に連れて来られた。その患者には影が二つあった。専門家とおぼしき白衣の女性からこう言われた。

「二つの影のどちらが本物か当ててごらん」

 急にそんなことを言われて戸惑った。見た目にはどちらも同じような影だったからだ。だがしゃがみこんでその影を触ってみると、片方の影に妙な違和感と手触りを感じた。うまく言えないけど、ぼくはこう直感した。この影はこの世のものではない、と。

「この影は何か違う気がする、こちらの影が本物……かな?」

 それを見ていた白衣の一団がざわついた。どうしてそう思うのかと訊かれたので、僕は感じたことをそのまま述べた。そうしたらまた白衣の女性がぼくにこう言った。

「では、その本物ではない方の影……つまり偽物の方の影をはがしてごらん」

 影をはがす? そんなことできるわけがない。

「大丈夫、あなたならできるはず」

 ぼくはおそるおそる偽物の方の影に手をのばした。影のふちに手をかけると、そのふちにたしかな手ごたえを感じることができた。物理的に力をこめて、床の上に落ちていた影を少しずつ引きはがす。まるでヨーグルトの蓋を開けるときのように、影は一枚の黒い「何か」となって床をはなれた。



   〇



「あの時は本当に大変な騒ぎだったのよ」

と、さゆり姉が日本酒を片手に呟いた。どうでもいいけどまだ飲む気だろうかこの人は。「あんたの家には行っちゃいけない、あんたとも会ってはいけないと言われてたの。両親の話からあんたが高熱でうなされてるという噂も聞いた。それまで近寄ったこともなかった図書館に行って自分でその病気について調べたりもしたわ。でもほとんど情報は出てこなかった。そりゃそうよね、何しろ最初の患者が発見されてからまだ間もない時期だったもの」

 僕はおかわりしたウーロン茶をひとくち飲んだ。そしてこう言った。

「そういえばさゆり姉はこの病気にかかったことないよね」

「かかったら治療はお願いするわ。もちろん無料タダで」


 酔いつぶれたさゆり姉を運ぶのがまたひと苦労だったが、まあそれはいつものことだ。(住んでいるのが同じマンションの違う部屋なのでこういう時は助かる)


 この日一番の問題はその後に起こった。信じられないことに、

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