影と居酒屋と年上のお姉さん

第4話 ヨーグルトの容器の蓋をあける要領で

 それからしばらくの間、ハンナに会えない日が続いた。仕事が忙しい時期に入ったのだ。


 ぼくは都内の大学に通っているいわゆる大学生という身分だが、その一方で大手企業の下請けの下請けの下請けの……というような立場で仕事を受注している。特殊な資格が必要とされる業種なので、ぼくのようなモラトリアムの大学生でも入り込む余地があったというわけだ。

 夏が近づくと、受注件数はうなぎのぼりになる。


 先方からあらかじめメールで知らされている施設に赴くと、いかにもお役所といった感じの旧式の門をくぐり、警備員に形だけ用向きを伝える。

「こんにちは。の件で来ました」

「はい、承知しております。どうぞお通り下さい」

 年配の男性警備員は愛想よく応対する。これまでに何度も繰り返された会話だ。

 受付の女性職員にも同じように用向きを伝える。

「七階の七一五号室で患者様がお待ちです」



 ぼく以外に誰も乗っていないエレベーターの扉が開く。七階は隔離かくりエリアに指定されているので、人の気配というものがない。薄暗い廊下をとぼとぼと歩き、突き当たりの角を右に曲がると、七一五号室はもう目の前だ。

 ノックを二回。中から明瞭な声で返事が聞こえた。

「どうぞ、お入り下さい」


 ドアを開けると、七一五号室の中は薄暗い廊下よりなお暗く、外部からの光一つ洩らさない闇そのものだった。

「こんにちは、影はがしの件で伺いました。電気を点けてもよろしいでしょうか?」

 闇は答えない。その代わり、闇の中にどっぷりと漬かっている誰かがこう言った。

「構いません。ただしその前にひとつ確認したいことがあります。私がこの奇病をわずらっていたことは何卒御内密にお願いします」

「心得ております。クライアントのプライバシーは一切他言致しませんので、ご安心を」

 入口の横のスイッチを押して電気を点す。部屋の闇がうってかわって消え去り、内部の輪郭りんかくが鮮やかに浮かび出た。

 そこはどこにでもあるような病室そのものだった。大型のベッドが一つと小型の冷蔵庫、ベッドを仕切るカーテンは畳んであり、ベッドの上ではどこにでもいるような中年の男性が胡坐あぐらをかいているのが認められた。

「ずいぶんお若いですな」

と中年の男性が呟いた。

「皆さんそう仰います。しかし腕は確かですのでご安心を」

 不遜ふそんとも取れる口調で答える。安心感を与える、という意味ではこれが効果的だ。

「いや、そういう意味で言ったわけではありませんが……、では、早速お願いします」

「かしこまりました。どうぞ気楽に。すぐ済みます」

 中年男性を部屋の真ん中に起立するよう促す。蛍光灯の白々とした明かりが部屋中に満ちる中、人の肉体に光がさえぎられ、リノリウムの床に影が落ちる。

 中年男性の体と床の間に、が落ちている。

「確かに二つですね。では引きはがします。目をつむってお待ち下さい」

 ぼくはふところから一冊の本を取り出し、おもむろに開く。中身は……白紙だ。文字も絵も線も点も、何も書かれていない、ただの白紙の本だ。こういう本でないと、引きはがした影はとじ込められない。

 右手の指先に神経を集中させ、二つの影のうちの一つを手探る。どちらの影が「もどき」であるのかをまず判断しなくてはならない。本物の影は簡単にははがれないようになっているが、もしも何かの間違いではがれた場合、「もどき」の影は二度とはがれなくなる。そのため、この動作は慎重に慎重を期す必要がある。

 しかし、「もどき」の影を間違えることはまずない。「もどき」には独特の触感があるのだ。

「もどき」の影の端を掴んで軽く力を入れると、まるでヨーグルトの容器の蓋をあけるような要領で影は床から引きはがされた。引きはがされた影はもう影でもなんでもない。ただの黒く薄っぺらい「何か」に過ぎない。

 無事にはがした「影」は折り畳むようにして、左手に広げた白紙の本に収納していく。ぼくは中年の男性に、事実を告げる淡々とした口調でこう述べる。

「これで治療は終了しました。もう誰かへの感染は起こりませんので、街中を歩いても心配ありません」

 彼はあっけに取られたような表情だったが、何度も自分の影が一つだけなのを確認すると、嬉しそうに感謝の言葉を繰り返した。

「ああ、ありがとうございます。まさかこんなに簡単に治るとは」

「皆さんそう仰います」

「本当にありがとうございます。ところで、その本の中の影はどうなさるのですか?」

「とある施設にサンプルとして送る決まりになっていますが、病理の解明にはほとんど役に立ちません。何しろ、もうこれは影でも何でもないのですから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る