逆襲ガラパゴス
rita
第1話
夏の初めのむしむしする宵だった。
ここはG駅前のシティホテル、”鳳凰の間”。
大きな体育館ほどの広さのホールには、恒例の風景が広がっていた。
牛歩戦術よろしく、ジリッジリッと獲物に近づいていくもの、
腕組みしたまま退屈顔を繕うツンデレ女子
ドロクバ張りの猛スピードで目当ての相手めがけて突進していくもの。
鳳凰の図柄が織り込まれた絨毯は、人々が行きかうたびにサクサクと草いきれのような小気味のいい音をたてたが、
やがて円卓を挟んで人々がおしゃべりに興じる頃には
すっかりなりをひそめてしまった。
婚活パーティのハイライト、フリートークタイムが始まったのだ。
高嶋(たかしま)明良(あきら)は須藤千奈(すどうちな)津(つ)が
セルフサービスのジュースのストローに口をつけながら、
にっこりほほ笑むのを夢見心地で眺めていた。
袖と裾にリボン飾りのついたパフスリーブの群青色のワンピース。
肩口にほどよくカールのきいた長い髪が散っている。
薄っすらとピンク色に光らせた唇は
三十二才の年相応の色香と理知に溢れ
色白に整った艶やかな肌と織物のように黒々とした瞳は
かの中世の名画、イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢を彷彿とさせた。
童顔のうりざね顔が好みで、いわゆる一目ぼれだったのだが
彼女の方でもまさか自分を選んでくれるとは思いもしなかった。
瞼を伏せうつむきがちにレモンジュースを飲む仕草ときたら
れんげ草に羽を休めた蝶々のようではないか。
いつまでも眺めていたいほどだったが
何分トークタイムは三十分と限られていた。
「須藤さん、趣味は何ですか」
「ヴィオラです」
「ヴィオラ」
「バイオリンによく似た楽器ですけれど、ご存じありませんか」
「ああ、なんとなく。いや、知ってます、知ってます。
確かバイオリンより少し大きいサイズの楽器ですよね。
音も少し低音だったんじゃないかな」
「まあ、よくご存じですね。
わたし、あの低音がたまらなく好きなんですよ」
その時おごそかなトランペットのメロディが流れ出した。
ジュゼッペ・ヴェルディ作、”凱旋行進曲”
高嶋は少しくぐもった調べに耳を済ませながら
音楽が鳴りやむのをひすら待った。
けれど意に反して、行進曲は延々と流れ続けた。
それで仕方なく須藤千奈津に一声かけてから
傍らのボディーバッグに手を伸ばし
大急ぎでファスナーを開いた。
中からケータイを取り上げると、少し乱暴な声をたてた。
「もしもし」
「山川さん」
「はぁ」
「山川さんじゃない」
「違いますよ」
羽の擦り切れた鈴虫のようなかすれ声の女は
丁重に何度も詫びて電話を切った。
その途端、再び”凱旋行進曲”が始まったので
彼は反射的に受信ボタンを押した。
「もしもし」
「河村さんのお宅ですか」
「だから、違いますよっ」
彼は珍しく声を荒げていた。
しわがれ声の男の声が謝罪の言葉を述べようとしたところで
大急ぎで電話を切った。おそるおそる振り向くと
須藤千奈津のとまどうような視線と目があった。
「いやぁ、まいりましたよ。
二件続けてまちがい電話なんて、全くどうなってんだよって、ねっ」
無理して明るい声をたてたが
彼女はにこりともしない。
会場はどこもかしこも熱気でむんむんしていたが
二人のテーブルの周りだけは、ベーリング海のように凍りついていた。
「飲み物のおかわり、取ってきましょうか」
「いいえ、結構です」
須藤千奈津はショルダーバッグを肩にかけると
さっと椅子から立ち上がり、駆けるようにしてホールから出て行ってしまった。
その日、意気消沈して自宅に戻った高嶋は
真っ先にバスルームへと向かった。
嫌なことがあった日には、風呂に入ることにしていた。
身長175センチほどの彼が
足もろくろく伸ばせない狭いユニットバスだが
バスタブにゆったりと浸かっていると
不思議に気分が和らいでくる。
30分も浸かっていれば疲れもとれて
気分転換に風呂場ほど最適な場所はなかった。
湯からあがるといつもの習慣で
裸の上からバスタオルだけ巻きつけてテレビをつけた。
冷えたビールをちびちびやっているうちに、お待ちかねのドキュメンタリー番組が始まる。今晩のテーマは”中国の雲南省の山岳民族の生活”だ。
考えてみれば高嶋明良が三十八才になるまで独身を通してきたのも
こうしたゆったりした一人の時間を味わいたいがためだった。
妻子がいれば、長湯をしたり裸のままビール片手に
テレビなんてことはまず不可能だろう。
テレビが一台しかなければチャンネル争いだっておこるかもしれない。
けれど、それがいったいなんだろう。
この先ずっとこんな生活を繰り返したとして
その先にどんないいことがあるというのだろう。
むしろこんなちっぽけな自由を守らんとするがために、夢のように楽しい未来を棒に振っているのかもしれないではないか。
その晩彼は珍しく将来のことを考えてすっかり憂鬱になった。
婚活パーティで好みの女性と出会えたのに
あんな形でフイになったせいかもしれない。
彼は諦め悪く、ルノアールの絵画から抜け出てきたような可憐な須藤千奈津を思い出しながら、泣くにも泣けない気持ちをかみしめていた。
その時またしてもケータイが鳴った。
着信ボタンを押すと、フェイドアウトしたトランペットの代わりに
かん高い女の声が響いてきた。
「タケシぃ、タケシなのぉ」
「だから違うって言ってるだろ」
電話を切るなりえもいわれぬ怒りがこみあげてきた。
象牙色の傷だらけのケータイ電話を強く握りしめながら、彼は思わずつぶやいた。
――こんな古臭いガラケーはとっとと捨てることにしようーー
翌日、彼は仕事帰りに街に出て
さっそくスマートフォンのキャリア会社と契約を結んだ。
考えてみれば十年以上使い込んできた。
テレビ電話付きのガラケーで、不動産業界の営業マンにとって
テレビ電話は不可欠な機能の一つだったが
今はスマホ一つあればすべて事足りる時代だから
お払い箱にしてもまったく不便はなかった。
その晩彼は家に戻ると、早速携帯電話の会社に解約の連絡を入れた。
お客様相談係の担当者にその旨を伝えると
今月分の基本使用料はもう発生してしまっているので
正式な契約解除は来月からになるとのことだった。
わかりましたと言って電話を切った。
その時また、”凱旋行進曲”が鳴り始めた。
おごそかなトランペットにしばし耳を傾けてから
受話のボタンを押す。
「もしもし」
「――――」
返事は返ってこない。
「もしもし」
もう一度呼びかけたが、返事は返ってこない。一分も過ぎた頃、沈黙の壁をそっと破るようにして声が聞こえてきた。
――ステナイデーー
それはそれは細くて優しい声色で、鈴蘭の花が話したらこんな風だろうと思われた。
――ワタシヲ ステナイデ オネガイーー
まさか。顏から血の気が引いた。
――ジジジジジーーー
やがてラジオの電波が混線でもしているような不快な音が漏れてくると
彼は思わず大きな声を上げた。
「わかった、わかった。捨てないから、とにかくこの耳障りな音をどうにかしてくれ」
とたんに音が止む。ほんとうにぴたりと止んだのだ。
まちがいない。優し気な声は、携帯電話自身が話していたものだったのだ。
電源を切ってからも動揺は収まらなかった。
とにかくこれは異常事態だ。
床に就いてからも気味が悪くてなかなか寝付くことができなかった。
ようやく眠りについた頃、枕もとでまたしても
勇壮なトランペットの調べが流れ始めた。
充電器にセットしてあった電話機からだった。
「もしもし」
受話器の向こうから、聞き覚えのあるか細い声が囁いた。
ーーモウ オナカイッパイ アリガトウーー
翌日、昼過ぎのことだった。
会社の接客カウンターで、顧客相手に
スマートフォンに保存しておいた画像を見せなが
新築物件の間取りの説明をしていると
再びあの”凱旋行進曲”が鳴りだした。
「ちょっと失礼いたします」
とっさに客に背を向けるようにして携帯電話を取り出した。
「もしもし」
――ウワキ ダメ ユルサナイーー
「浮気?」
――ワタシイガイニ フレルコト ユルサナイーー
「なんだよ、それ」
――ワタシモ シャシン トレルーー
「わかった、わかった」
――ワカッタハイッカイ ワカッタ?ーー
「ああ、わかった、わかった」
――ワカッタハイッカイ ワカッタ?ーー
「ああ、わかったよ」
電話を切って振り返ると
私用の電話と思ったらしい。お客のものすごい視線と目があった。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げて謝罪の言葉を述べたが
怒りを収めることはできなかった。
客は憤然と立ち上がりそのまま出て行ってしまった。
“まったくお前のせいでえらい目にあった。これで二度目だからな”
ひとりごちていると、背後に人の気配を感じた。
上司の宇佐美課長だった。
「商談はうまくいったか」
「ダメでした。途中までは上手くいってたのですか」
彼はとっさにバッグをがさごそやって
しゃべる携帯電話を取り出してくると言った。
「コイツのせいで、おじゃんになりました。
話が興にのって来たところで、鳴りだしたものですから」
宇佐美課長の顔が思わず紅潮する。
怒られるのかと身構えたところで
スーツのポケットから取り出されたものを見て唖然となった。
手の中には、高嶋と全くデザインも色も同じ
二つ折れの携帯電話が握りしめられていた。
「いやぁ、我が同志よ。まだ旧式のものを持っている人間が
近くにいたとは感激だよ」
すっかり気を良くした課長は
思いもよらぬ提案を持ち掛けた。
なんと商談中のタワーマンション希望の新婚夫婦を紹介してやると言うのだ。
「ほんとうですか」
「ああ。同じような物件を希望する顧客を三組抱えてて
手が回らなくなりかてけたから、引き受けてくれればかえって好都合なんだ」
新婚夫婦の商談はほどなくまとまった。
夫婦から新しい顧客を紹介されると
そこから高嶋の快進撃が始まる。
暑い盛りにもかかわらず十二件もの契約を結び
念願の係長に昇級を果たしたのだ。
昇進祝いもかねて、販売課のメンバーで繰り出した飲み会の席で
彼は勧められるままに機嫌よくビールをがぶがぶ飲んだ。
二件目のバーでも、ウィスキーをロックでぐいぐいあおった。
飲み会は夜半過ぎにはお開きになったが
店のホステスとすっかり意気投合した彼は
所帯持ちが全員引き揚げたあとは
一人店に居残った。二人きりになるとさすがに話題は尽き
午前二時を回る頃、彼も店を出た。
バーは曲がりくねった路地の裏手にあったので
タクシーを拾うためには、少し歩かねばならなかった。
彼は暗い路地から路地をよろめくように歩き続けた。ほぼ酩酊状態で、道端にしゃがみこんで眠り込んでもおかしくはないほどだった。
細道から少し広い小路に出たところで
ラブホのゴテゴテとしたネオンサインが見えると
彼は目の毒といわんばかりに足取りを早めた。
そこから大通りに出ようとしたところで
再び携帯電話が鳴りだした。
彼はちっと舌打ちし、道端に立ち止まりバッグをがさごそ探った。
とその時、猛スピードで車が突っ込んできた。
黒い大型車で、ガラス越しにちらと
真っ赤な鳥のくちばしのようなものが浮かんでは消えた。
車はそのままホテルの駐車場へと入っていったが
その途端彼は、へなへなと地面にしゃがみこんだ。
そして手の中の携帯電話をじっと握りしめながらつぶやいた。
――ありがどう。お前が鳴らなかったら
きっと僕はあの車にひかれていたよーー
高嶋は夏中、働きに働いた。
新規顧客開拓のためのチラシ配りから
既存顧客のメンテナンス業務
内覧会が開催されれば土日も休まず出勤した。
カンカン照りの中を歩き回っているうちに
肌はコッペパン色に焼け、身体もすっかり引き締まって
スーツのサイズを一つ落とさなければならないほど痩せてしまったが
悪くはない毎日だった。
そんなある朝のことだった。
定刻通り出勤し意気揚々と事務所のデスクについた高嶋は
いつもの習慣でブリーフケースを開いて唖然となった。
内側の袋に入れておいたはずの携帯電話が見当たらないのだ。
スマートフォンは確かにあるのだが
あのお茶目ないたずら好きのガラケーが
影も形も見あたらなくなっていたのだ。
家を出る時は確かにそこにあった。
彼はバッグの中を逆さにしたが
名刺入れ、メジャースケール、電卓、ホッチキス
そういったものがたちまちばらばら落っこちてきただけだった。
顔色から血の気が失せていた。
思えば婚活パーティの席上で
間の悪い思いをしたのが原因で、いったんは捨てようと考えた。
けれど、再三の逆襲にあった挙句に、命拾いまでさせてもらった
ラッキーアイテム。愛しい愛しい僕の相棒。
今やあれがなければ、夜も日も明けない心地だった。
――いったいどこに行っちゃったんだよ
頼むからもう一度、あの厳かで優雅な”凱旋行進曲”を響かせておくれよーー
高嶋は、冷静に昨日一日の行動を振り返ってみた。
朝、出かける際には、確かにそれはバッグの内ポケットに入っていた。
お昼前に、一度お客様から電話が入ったが
五分ほど話して電話を切ると元通りにバッグにしまった。
夜、夕飯を食べに会社近くの中華料理店に出かけた際
一度電話が鳴ったが、それは間違い電話だった。
30分ほどで食事を済ませると、駅から電車に乗って帰途についた。
K駅で下車。途中、いつも立ちよるコンビニでビールを二本かった。
マンションに戻ると、十時過ぎには床に就いた。
いつも通り、何ら変わったところのない一日である。
翌日は、仕事も返上して、迷子の相棒探しに明け暮れた。
夕飯を食べに出かけたラーメン店、帰りにビールを買ったコンビニ。
念のために電鉄会社の遺失物預かり係に電話を入れてもみたが
携帯電話の届けは一件もないとのことだった。
夕刻、意気消沈して社に戻ると
受付の女の子がバタバタとデスクに駆け付けてきた。
「高嶋さん、今までどこほっつき歩いてたんですか」
「どこって、外回りに決まってるじゃないか。
君こそなんだよ、そんなにあわてて」
「高嶋さんに用事があるって、女の人がお待ちかねなんですよ」
ショールームの出口にほど近い、一人掛けの席に
ぽつんと佇む姿を見て言葉を失った。
肩まで伸びた黒く艶やかな髪、くるりと上を向いた睫毛。そしてとびきり愛くるしい黒いボタンのような丸い瞳。
それはあの婚活パーティの日、再三の間違い電話に白けて
席を立っていった須藤千奈津だった。
「やあ、どうも」
「ご無沙汰してます。お元気」
「ええ、見てのとおりなんとか頑張ってます」
高嶋はネクタイに軽く手をかけてほほ笑んで見せた。
「それで、パーティにはあれからもよく」
「いいえ、全くご無沙汰ですよ。
あなたに振られて、自信喪失ってとこです」
コロコロと鈴のような声をたてて笑う娘を見ると
高嶋の胸にあの苦しくも切ないときめきがよみがえってきた。
もう会えないと思ってあきらめていただけに、感激はひとしおだった。
「それで、ご用件は」
「落とし物を届けに来たんです」
「落とし物」
須藤千奈津はあの時と同じ群青色のワンピースのすそを
くるりとひるがえすようにして横を向き
腰に下げたポーチから取り出したものを
テーブルの上にそっと置いた。見まごうはずなどなかった。
それは愛しのガラパゴス、あの携帯電話だった。
「ありがとう」
高嶋は感極まったようになった。
感激のあまりものも言えなくなって
ただ須藤千奈津の相も変らぬ可憐な姿に見惚れていた。
彼女も満更でもなさそうに、こにここ笑顔を送ってくれたので
やがて思いきってたずねてみた。
「でも、いったいどこにあったんです。
どこでこれを見つけたんです?」
「昨日、たまたまあなたと同じ電車に乗ってたのよ。
それで高嶋さんは、駅で降りる直前にこれをポケットから落としたの。
だからわたし、すぐに拾って大切に持ってたの。
あの時、せっかく話が盛り上がっていたのに席を立ったりしたこと
ずっと謝りたいと思っていたものですから。
でもよかった、直接手渡せて」
息が弾みだしていた。昨晩、中華料理店で鳴ったのは
またもやガラパゴスの仕業だったのか。
そうだ、そして僕は、バッグからあわてて取り出したあとで
いつもの癖でズボンのポケットにしまいこんだのだ。
――憎いやつめーー
思わず手を伸ばし愛しの相棒を手のひらに置いてみた。
携帯電話は珍しく沈黙を保っていた。試しに強く握りしめると
角っこのカメラレンズがピカッピカッと二度ほど光って間もなく消えた。
逆襲ガラパゴス rita @kyo71900
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