マル
尾八原ジュージ
マル
俺は研究室の味気ないデスクに弁当を広げ、溜息をついた。自分で詰めたのだからわかりきったことだが、相変わらずシケた内容の弁当だ。色合いも悪ければ、味にも大した期待は持てない。
大学の助手になれない研究生ときたら、実家が金持ちでない限りは金欠でヒイヒイ泣いているのが常だ。その代わり無事に資格が取れれば、いい稼ぎの就職口にありつくことができる。たぶん……おそらくそのはずだ。
俺はまた溜息をつきながら、形の崩れた卵焼きを口に運んだ。部屋の隅に置かれたソファの上では、俺の同級生であり友人でもある男がひっくり返って、小さないびきをかいている。昨日はアルバイトが夜勤だったのだそうだ。
弁当を食べながら、俺は右の方をちらちらと観察していた。研究室の半分ほどを占めるケージの中では、不思議な生物が寝息を立てている。どうやら、先ほどの鎮静剤がよく効いているらしい。
マルは、厳密には俺たちの世界の生き物ではない。俺たちが「異世界」と呼んでいる場所からやってきたのだ。異世界への出入口が出現することは極めて稀だったはずだが、近年では観測件数が少しずつ増え、異世界から生物が転送されるケースもある。
マルがやってきた異世界からの入り口は、俺たちが通う大学の敷地内の森で観測された。そこで発見されたこいつに、俺たちは取り急ぎ「マル」という名前をつけた。
愛嬌のある丸顔とふっくらした体躯は、そんな仮の名前によく似合っていると思う。ただ教授は、マルの健康状態を診て顔をしかめていた。
「病気はない。健康体だが……ちっとばかし太りすぎだな。前の飼い主が甘やかしすぎたんだろう」
可愛がっていたつもりかもしれないが、これでは逆にマルがかわいそうだ。俺と友人は、教授からマルの健康管理と、日々の記録をつけるよう言い渡された。おかげでアルバイトができる時間は減ってしまったが、これはこれで悪くないな、と思うこともある。
俺も友人も、動物が好きなのだ。ましてマルは、俺たちが研究室にやってきてから初めて、メインで世話を任された個体だ。こいつに対して、俺たちは特別な愛着を持っていた。
「ふあ~……あー、寝た寝た」
ソファの上からおよそ可愛らしくない声がした。友人が起き上がったのだ。髭の付け根をポリポリと掻きながら、ケージの方を見る。
「おお、マルもよく寝てんな……暴れて大変だったもんな」
「こいつも、慣れない場所に連れてこられて混乱してるんだろ。お前だって突然捕まってオリに入れられたら暴れるさ」
「違いねぇ。でもまぁ、ほっときゃ餓死だからな。それか、別の生物に襲われて死んじまうか……」
マルのような生物は、見つかること自体が珍しいし、まだわかっていないことも多い。研究のためには、まず捕まえ、安全な場所に隔離しなければならないのだ。自由を奪うのはかわいそうかもしれないが、自然の中でなすすべもなく死んでしまうよりはいい、と俺は思っている。
「平和な寝顔してやがるぜ」
友人はひそひそ声で言いながら、ふっと小さく笑った。
「かわいいな」
「おう。かわいい」
俺たちはニヤニヤしながらマルを眺めた。
「金持ちのペットとしても需要があるくらいだからなぁ。密猟者から保護するためにも、俺たちの活動は重要なんだ」
そう言いながらマルを見守る友人の顔は、まるで幼子を見るように優しい。
「ひどい奴もいるもんな。皮を剥いだりさ……」
自分で言っておいて、俺は顔をしかめた。
「ぞっとするよな。せっかく体色の珍しい個体だったのに、そのせいで命を落とすことになったんだ」
その密猟者は後に逮捕され、剥がれた皮は証拠物件および研究資料として、警察の研究機関に収容された。データベースで見たが、まるで絵画のように美しい模様の皮だった。
しかし、いくらきれいだからといって、無情に命を奪っていいことにはならない。不幸な彼らには鋭い牙も、大きな爪もない。これといった身を守るすべがないのだ。
「ああ、かわいそうだったよなぁ。あいつも長生きさせてやりたかった……」
友人はそう言いながら、ケージの中のマルを見つめていた。
「マル、ちょっと痩せたよな?」
「ああ、体重が減った。この調子でいけば、肥満による病気にはかからなくてすむだろうな」
「俺たちと同い年くらいなんだっけ? 換算すると」
「そうだな。同年代のオス同士だ。友達になれそうじゃないか」
「こいつ、早く懐かないかなぁ」
友人はニヤニヤした。「つーかさ、俺も金持ちになって、でっかい家に住んでさ。そんでもって、マルを引き取って暮らしたいぜ」
「お前、ほんとにマル好きだな。俺もだけど」
「だよな! こいつ、特別かわいいよな!」
友人はつい熱くなったのか、声が大きくなった。俺は慌てて制した。
「おいおい、マルが起きたらどうすんだよ! また暴れて怪我するぞ」
「おっと、すまん。いやぁ、初めてメインで面倒みる個体だからさ。やっぱり愛着わくよなぁ」
「ま、生半可な金持ちじゃ飼えないだろうけど……マルは大学で飼うのかな。それともどこかの動物園かな」
俺はふと、マルの将来について考えた。もちろん、こんなケージの中に一生入れておくわけにはいかないだろう。
「そうだなぁ。大学の研究所は静かだけど、ちょっと寂しいかもな。反対に動物園は賑やかだけど、ジロジロ見られるのは嫌かもしれんし……やっぱり俺が引き取りてぇなぁ」
友人の話は、いつもそこに帰着してしまう。俺は苦笑した。
「夢だよなぁ」
「ほんと、叶えるのは難しい夢だぜ」
だから俺は、今こうして研究室でマルと過ごせる時間を大切にしたい。それは友人も同じだろう。卒業してしまえば、今のように毎日研究室に来ることはできない。マルとも滅多に会えなくなる。
「なぁ、こいつをこっそり持ち出しちゃったらさ……どうする?」
突然、友人がぼそりと呟いた。俺の心にさざ波が立った。
「バカ、何言ってんだ」
「だってこいつ、飼育自体はそんなに難しいわけじゃないだろ? 産まれたての赤ん坊ならいざしらず、マルは立派な成体なんだ。それほどデリケートな生き物ってわけじゃない。餌がバカ高いわけでも、厳密な温度管理が必要なわけでもないんだ。ただ、こいつを手に入れるために莫大な金を積まなきゃならないってだけで、理論上は俺のアパートでだって飼うことは可能だよ」
「お前……」
俺は弁当のことも忘れて考えた。ケージの鍵も、この研究室のセキュリティコードも俺たちが管理している。何とか学外に持ち出すことさえできれば、俺たちはマルと生活することができる。ずっと一緒にいられる……。
しかし、俺は頭を振ってばかげた考えを追い出した。
「やっぱりお前はバカだよ。マルが病気になったり、怪我をしたりしたらどうする? いくら気を付けてたってその可能性はあるんだ。そうなってから動物病院にかかってみろ。一発でアウトだぜ。それにこいつらの習性だって、まだまだ研究の余地があるんだ。『アパートでも飼える』なんて決めつけるのは早すぎる」
「ははは、怒るなよ」
友人は控えめに笑った。「俺だってわかってるよ、冗談冗談……」
「ほんとに冗談かよ」
「冗談だって。大体、俺たちよりもマルの方がずっと寿命が短いんだ。自分ちで飼ってて死んだら、俺、めちゃくちゃ悲しくて死んじゃう」
そう言いながら、友人は尖った耳の先を掻いた。本人は気づいていないが、これは気まずい時のこいつの癖なのだ。つい本心が漏れかけてしまったことを、恥じているに違いない。
俺はこれ以上追及しないことに決め、「それな。俺も悲しくて死んじゃう」と冗談混じりに返した。
「俺ら、研究者にしてはセンチメンタル過ぎるな」
俺たちは顔を見合わせ、小声で笑いあった。
「はぁー。でも金はほしいな。当たり前だけど」
「俺も。なんかうまいものがこう、異世界から降ってこねーかなぁ」
友人の言葉に、俺は苦笑した。「いや、うまいものって何だよ」
「なんかこう、俺たちの知らない、もーかるようなものだよ」
「お前、眠さで思考停止してないか? せめて具体例出せよ」
俺がそう言うと、友人はソファの上で腕を組み、眉間に皺をよせて考えた。
「んー、何? たとえば、うーん……あれだ、すごく珍しい花の種。それを育てて売る」
「生態系への影響がでかそうだな。教授にぶん殴られるぞ」
「じゃあなんかあれだ。俺たちの考えつかないような異世界の便利グッズが出てきて、その仕組みを俺たちが解明して、特許をとる。ウハウハだぜ」
「ボンヤリにもほどがある」
俺がつっこむと、友人は歯をむき出して笑った。それからちらりと、眠っているマルに目線を飛ばした。
「いやでも、異世界から何かが降ってくるってのは、あながち可能性ゼロでもないだろ?」
「まぁ、そうだな……」
俺もマルを見た。「滅多にないことだけどな」
「そうだよ。だって……ああそうか!」と、友人は膝を叩く。
「異世界から自在に物や生き物を取り出せる仕組みを開発すりゃいいんだ。画期的な発明になるぜ」
「ははは、確かになるだろうけど、そりゃ俺たちの専攻と全然違うだろ」
「まぁそうだけど……でもなぁ、あながち夢物語でもないと俺は思うけどね。マルだってその、異世界から来たんだからさ」
「確かに……」
俺は眠っているマルを見ながら、異世界とやらに思いを馳せた。
一体どんなところだろう。そこにはマルのような、不思議で愛らしい生き物がたくさんいるのだろうか。こいつらの滑らかで柔らかい肌も、少ない体毛も、俺たちの世界では非常に珍しい特徴だが、マルの故郷には、こんな仲間がたくさんいるのかもしれない。
ふと視線を逸らすと、壁にかけてある時計が目に入った。
「あっ、そうだ。写真を撮っておかなきゃ」
俺は慌てて立ち上がった。大体決まった時間に撮るよう教授に言われていたのに、その時間をとっくに過ぎていた。
「そっか。でも……起こしちゃうんじゃね? そのカメラ、撮るときに光るし」
友人は気が進まない様子だ。
「うーん。でも時間のこともあるし、記録を残すのが俺たちの役目だからなぁ……」
「ま、起きたら起きたで何とかするか」
「うん」
俺はカメラを取り出すと、心の中で(起きるなよ)と念じながら、眠っているマルに向かってシャッターを押した。途端に薄暗い研究室が、一瞬パッと明るくなった。
マルの瞼がピクピクと動いた。すぐに目が開かれたかと思うと、マルは俺たちの存在に気付いて飛びのき、ケージの隅に引っ込んで騒ぎ始めた。
「ありゃー、やっぱり起きちゃったか」
友人が頭を掻く。「おーい、マル! 大丈夫だぞ。怖くない、怖くない」
「やっぱり起きちゃったか。あーあ、動物と言葉が通じればなぁ」
俺は3回目の溜め息をついた。友人がニヤッとした。
「俺はそのうち、マルとコミュニケーションができるようになると思ってるぜ? こいつ、いろんな鳴き声を持ってるからな。そいつをひとつひとつ解析すりゃ……」
「そう言われてみりゃ、いつもと吠え方が違うんじゃないか?」
俺がそう言うと、友人は「録音だ録音」と言いながら4つの瞳をキラキラ輝かせ、尻尾を器用に使って棚からレコーダーを取り出した。
俺は念のため、鎮静剤を打つ準備をすべく、薬品棚に向かった。
薬品棚のガラス扉には、鱗で覆われた俺の顔が映っている。鼻先の角に皺がよっているのを見て、疲れた顔だな、と我ながら苦笑してしまう。
その後ろに見えるマルは、体をケージの隅に隠すようにしながら、「オマエラナニモノダ」とか「バケモノメ」とか「ココカラダセ」とか、なんだか多彩な鳴き声を発していた。
マル 尾八原ジュージ @zi-yon
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