月と蛍

きさらぎみやび

月と蛍 

初めて蛍を見たのは小学2年生の夏。

家族でキャンプに行った際に、キャンプ場のすぐそばの森で蛍が見れると聞いて皆で向かったのだった。自分としてはたき火のほうがよっぽど面白かったのでしぶしぶと手を引かれていた。

暗闇も怖いし、初夏の夜の森は様々な生き物の息遣いに満ちており、それも少し恐ろしかった。

夜の隙間に小さな光が舞っていることに気が付いたのはその時だった。

ふわり、ふわり。

ひとつ、またひとつと増えていき、

あっという間にあたりは光の粒に満ち溢れていた。

それは初めて見る光景だった。

明滅を繰り返しながら黄緑色の淡い光が木々の間に遊んでいる。

慣れ親しんだ人工の光とは異なる、その不思議な輝きに、

気が付けばすっかりと心を奪われていた。



一面に群れるゲンジボタルの淡く優しい光が、

今でも目の奥に焼き付いているような気がする。







「えぇー、あんなのタダの虫じゃないですかぁ」


足を開いてぺったりと上半身を床につけながら、心底嫌そうに彼女が言う。

小柄ながらすらりと伸びた手足はなんの迷いもなく地面と平行線を描いている。


「いや、ただの虫って…他に言いようないの?」


あいにくこちらはそんな芸当はできない。

足を開いて必死に体を前に倒すが、肘すらつかない体たらく。

力を込めるたびに体のどこかが軋みをあげて抗議の声をあげる。30歳を目前にしてその声はどうやら日増しに高まっているようだ。

彼女はそんな様子を見かねてか、後ろに回ってこちらの体を押してくる。


「先輩、カラダ硬すぎっすよ。そんなんで中盤の殺陣たて、きちんとできるんすかぁ?」


彼女なりに体重をかけて押してくれているが、残念ながら彼女の重さではわが肉体の抗議の声には負けてしまっている。


「これでも運動はできるほうなんだよ。体が硬いのだけが難点なの」

「体硬いのって結構致命的だと思うんすけど」


だから今必死にやってるんじゃないか、その言葉をぐっと飲みこんだ勢いのまま、さらに全身に力を込める。


「いやいやいや、ガチガチにチカラはいってんじゃないすか、

 だからだめなんすよ」


(だからだめなんすよ、か)

何度そんな言葉を聞いたことだろうか。

すでに劇団に入ってから10年が過ぎようとしている。

こうやって稽古の1時間前にはみっちりとストレッチとトレーニングを行い、少ないバイト代から週3日のボイストレーニングに通い、やれることはやってきたつもりだ。それでもまた主役には抜擢されなかった。今回の殺陣だってただのやられ役だ。

いつまでこの生活を続けられるのか、毎日がそんな不安との戦いになってきている。

考えているとみじめになってきて、少し意地悪でもしてやろうか、という気にもなる。


「なんでそんなに蛍が嫌いなのさ、自分の名前にもなっているのに」

「え、そこ掘り下げます?だって名前に虫の字が入っているんすよ、いやじゃないですか。なんか古臭いし」


蛍子けいこは劇団の看板女優だ。2年前に彼女が入ってきてからというもの、うちの劇団の公演は毎回のチケットノルマという呪縛から完全に解き放たれた。

いまや全ての脚本は完全に彼女の当て書きだし、演出家は彼女が他の劇団にとられやしないかといつもひやひやしているそうだ。


「女子は蛍が好きなもんだと思っていたんだけどなあ」


中学生になってから学校行事でキャンプに行ったことがある。あの時も蛍が見られて、女子はきゃあきゃあ喜んでいたような気がする。

男子はおおむね興味がなさそうな様子だった。自分を除いて。


「おんなじ光るなら虫よりも断然月が好きですね、いいじゃないですか、月。

 夜空に静かに浮いているのが素敵だと思いません?」


月、ねえ。月にはあまり良い印象がない。

なんであんな岩の塊に幻想を見出してくるのか。

へたに夢を見なければ、苦しむこともないだろうに。


「でも月の光って結局太陽の光の反射だろ。自分で光っているわけじゃない」

「自分で光らなきゃだめなんすか?」


どきっ、とした。光らなきゃいけない。自ら光らなければ見てもらえない。

そんな自分の焦りを見透かしてくるような問いかけだった。


「子供のころから月が好きなんです。

 あの光が太陽の反射だってことを知った時も、

 なんて素敵なんだろう、って思いました。

 太陽のあの強い光をなんて優しく受け止めているんだろう、って。

 そういう光り方もあるんじゃないですか」


月のような光り方。誰かの光を受け止めて、優しく光り返す。

そんな光り方もあるのだろうか。あっていいのだろうか。


「私、先輩の演技好きですよ。

 相手の呼吸や間合いを受け入れて優しく返してくれる。

 こちらの演技を何倍にも高めてくれるような気がするんです」


あえてはぐらかして答える。


「月だって自分で光りたがっているのかもしれないじゃないか。

 自分で光ることのできる蛍にあこがれているのかもしれない」

「そうですね。そうかもしれません。

 でも蛍だって、あの大きな、優しく受け止めてくれる月に

 あこがれているかもしれませんよ」


こちらをじっと見つめながら彼女が言う。

今更ながら、彼女はいつも早く来て自主トレーニングに付き合ってくれていたことを思い出す。





「そう思いませんか。月彦先輩」

そう言って彼女は、ふわりと笑った。

あの時の蛍の輝きのように、淡く、優しく。

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