雨の国

橘花やよい

雨の国

 雨が降っている。

 空は晴天。雲一つない青空が広がっているのに、空から雨が落ちてくる。


「本当にやまないんだな」


 男は宿屋の壁にもたれかかって、開かれた障子の間から外を見つめた。

 穏やかな街の景色。植木の緑に雨粒が跳ねる。

 この街にきて一週間。空は晴れているのに、一度だって雨は降りやまなかった。


「そりゃそうさ。ここではもう何十年と雨が降り続けている。雨の国と呼ばれる由縁さね」


 宿屋の主人はつまらなさそうにそう言った。


「あんたみたいな旅人には珍しいかもしれんが、俺にとっては普通のつまらん日常だ」


 ぽつぽつと雨音が心地よい。男は目を閉じた。


「どうして雨はやまないんだろうね」

「さあね。そんなこと考えたこともない」


 ここはそういう国なのさと主人は続けた。


「ああ、でも。巫女様なら何か知っているかもしれないな」

「巫女?」

「森の中に巫女様が一人住んでいるんだ。ずっとそこで神に祈りを捧げている。巫女様は特殊だからな。何か知っているかもしれん」

「どういうお人なんだい」

「さあ。知らねえな」


 主人は男に見向きもせずに答える。


「巫女様は森のどこにいらっしゃるんで?」

「ずっと深いところだ」

「私でも行けるかい」

「定期的に街から食糧やら何やらを届けているから、巫女様の神殿までの道は分かりやすくなってるはずだ。迷いはしないだろうさ。だが、巫女様には極力近づかないようにっていうのが国のしきたりだ。俺たちみたいな下賤な民衆は巫女様には会っちゃいかんのさ」


 そうかいと言って男は立ち上がった。主人が怪訝そうに男を見る。


「出かけてくるよ」

「どこまで?」

「ちょいとそこまで」


 主人はそれ以上何も言わず、手許の帳簿を眺めた。




 森にはたしかに道があった。緑に囲まれた世界の中に一筋、踏み固められた茶色い地面が続く。

 男は番傘をさして道なりに歩いた。

 ぽつぽつぽつ。

 木の葉の上、地面の上、男がさす傘の上を雨粒が跳ねる。

 不思議と雨音以外はしなかった。

 一、二時間歩いた頃。空間が開けて目の前に湖が広がった。さほど大きくもない湖。水面には一面、蓮の花が咲いている。

 湖の上には橋が渡っていて、湖上にあるこじんまりとした屋敷に繋がっていた。


「ほう、湖上に浮かぶ神殿かい」


 男は橋の上に足をかけた。

 雨が湖上に降り注ぐ。水面に映る屋敷の姿が波紋とともに揺らいだ。


「ちょいとどなたかいらっしゃるかい」


 男は言ったあとで笑った。ここにいるのは巫女だけだという。どなたかと問うのは場違いだろう。

 暫く待ってみたが返事はない。男は門扉に手をかけた。錠はおろされていないようで、なんなく開く。

 失礼と声をかけて男は中に踏み入れた。

 薄暗い回廊が続いている。男は傘を立てかけると中にあがりこんで、回廊を進んだ。いくつかの襖を通り過ぎ、回廊の突き当り。男は襖を開けた。

 広い部屋だった。入口とは対極にある襖は開け放たれていて、水面とその先の森の木々がみえる。

 その景色を眺めている女が一人、男に背を向けて座っていた。


「どなたですか」


 女はふいと振り返る。

 まだ若い女だった。漆黒の瞳で男を見据える。


「ここには立ち入らぬ掟のはず」

「それがこの国の掟っていうのは聞いているが、私はただの旅人。この国の者ではないから、そんな国の掟を守る道理はない」

「郷に入っては郷に従えと言いますが」

「難しい言葉は知らんのでね」


 男は笑うと腰を下ろした。

 巫女は怪訝な顔をしたが、それ以上は何も言わず再び外を見つめた。


「つまらなさそうだな」

「何もすることがありませぬから」

「神に祈りを捧げるのが貴女の仕事じゃないのかい」

「巫女はこの神殿に留まることこそが役目なのです。巫女がここに存在することで、国を守るまじないが作られる。だから私はここで生きるだけでいい。何もすることなどありませぬ」


 水面を雨粒が跳ねる音がする。


「巫女っていうのは世襲かい」

「いいえ。巫女はこの世に一人きり。巫女が死ねば、新しく巫女の素養をもつ子どもが国のどこかで生まれる。次はその子どもが巫女になる。その子どもが死ねば、どこかでまた生まれる」


 それが延々と続くのです。巫女は言う。


「旅人様は何用でいらっしゃったのです」

「雨がやまない理由を知りたかったのさ」

「それを知ってどうなさる」

「どうもしないさ。ただ知りたいからここに来た」


 巫女はわずかばかり笑った。


「素直なお人」


 巫女は空へと手を伸ばす。雨粒が巫女の指先に落ちて、腕を伝った。


「これは、巫女の涙だそうです」

「涙?」

「代々の巫女が残した手記に、そう書いてありました。巫女の涙が雨となって降り注ぐのだと」


 空から落ちてくる雫が巫女の腕を伝い、袖を濡らす。

 男はその様子をじっとみた。


「雨はもうずっと降りやんだことがないっていうんだから、巫女ってのはどれだけの涙を流しているんだろうね。そんなに巫女は悲しいものなのかい」


 巫女は腕をおろして男をみた。


「――巫女は、寂しいのかもしれませぬ」

「寂しい?」

「巫女は、生まれたときから自分の意志の関係ないところでその運命を定められる。巫女の素養がある者は必ずこの屋敷に閉じ込められる。屋敷から出ることは叶わず、親や兄妹であっても会うことはできない。死ぬまでここで一人の時を過ごすのです。何をするわけでもなく、ただここに一人きり」


「一人が嫌なら逃げ出せばいいじゃないか。扉に錠はかかっていなかった。出ようと思えば出られるだろう」

「巫女がここにいなければ、国が危険に晒されるのです。私がここにいれば、家族や民を守れる。とても出る気にはなれませぬ」


 男は笑った。


「お優しいことで。俺なら他人のことなんて考えずに自分のしたいようにするがな」


 これが役目ですからと、巫女も微笑んだ。


「これが巫女の涙なのか実際のところは分かりませぬが、この雨にはたしかに巫女の霊力が含まれているようです。この雨が降りやまぬのは、巫女のため。旅人様の問いへの応えになっているでしょうか」

「ああ。じゅうぶんだ」


 男は立ち上がった。巫女は首だけ動かして男を見る。


「邪魔したな」


 巫女は何も言わず頭をさげた。




 屋敷を出て、番傘をさして森を歩く。

 雨が降りやむ気配はない。

 男はふと立ち上がると、傘を下ろした。

 空を見上げれば、相変わらず雲一つない青空。けれど雨粒は降ってくる。

 かつての巫女の涙か、それとも今の巫女の涙か。ぽつりぽつりと男の頬に落ちる。


「酔狂なことで」


 男は笑むと、傘を閉じたまま街に帰った。

 宿屋のせがれは帰ってきた男をみて目を丸くした。まだまだ幼い子どもだ。ばたばたと足音を立てて男に駆け寄った。


「兄さん、なんで傘ささないんだい」

「なんとなくさ」


 倅は手拭いを男に差し出した。


「坊よ、この国でどうして雨が降りやまぬのか知っているかい」


 男は手拭いで髪を拭きながら問いかけた。倅はきょとんとした顔で男を見る。


「さあ。そんなこと考えたことないよ。この国ではそういうもんなんだから」

「じゃあ、巫女については知っているかい」


 倅はきょとんと首をかしげる。

 男はそうかいと言って、障子に寄りかかった。

 ぽつぽつぽつ。

 男は空へと手を伸ばした。


「いつか、泣きやむことはできるのかね」


 落ちてくる雫はつーっと男の腕を伝った。

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雨の国 橘花やよい @yayoi326

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