チョコレート、食うかね

春風

チョコレート、食うかね

「チョコレート、食うかね」

 おじいちゃんがそう言って食べかけの板チョコを差し出してくれるとき、私は大抵泣いていた。

 理由は憶えていない。叱られたとか、転んだとか、ほしいおもちゃを買ってもらえなかったとか。そういう些細なことが殆どだったと思う。

 おじいちゃんは、ベランダで絵を描くことが日課だった。大抵はそこから見える景色や街並み、海や空などを、毎日毎日描き続けていた。泣いている私はいつもそこへ足を運んだ。

 おじいちゃんは静かな人で、口数もあまり多くなかった。そして、どんな時も変わらなかった。私がしくしく泣いていても、割れんばかりに泣き叫んでいても、顔を真っ赤にして怒り泣きしていても。

 何も聞かず、何も言わず、穏やかなほほえみを浮かべて、私を優しく抱き寄せ、頭をなでてくれたのだった。

 そうして私が落ち着いてくると、

「チョコレート、食うかね」

そう言って、食べかけの板チョコを渡してくれるのだ。

 私はありがとうも言わずに板チョコを受け取り、しかめっ面のままそれをかじる。チョコレートが好きだからと言って、すぐに笑顔になんてなれない。行き場のない感情を持て余して、私はぐすぐすと鼻を鳴らす。

 おじいちゃんはそんな私にはお構い無しで、さっさと絵を描き続ける作業に戻ってしまう。

 私はそれがなんだか寂しくて、おじいちゃんをチラチラと盗み見ていた。

 おじいちゃんが持っていた絵の具のチューブは7本だけだった。おじいちゃんは7色の絵の具を混ぜ合わせ、いくつもの色を創り出していた。


 雨上がりの朝、太陽の光に輝く濡れた紅葉の色。

 まぶしいほどの夕焼けに照らされる街の色。


 あれはなんという名前の色だったのだろう。チューブの色からは、まるで想像できない色が、パレットから次々と生まれていく。幼い私にとって、それはまるで魔法のよう。

「おじいちゃんはきっと魔法使いなんだ」

そんなことを考え始める頃には、涙は引っ込んでしまって、おじいちゃんと笑い合っている。そんなものだった。


 いま、ベランダに立つのは私ひとりだ。おじいちゃんが居た場所で、私は絵を描いている。

 絵の具は7色ではとても足りず、いくつものチューブを買い集めている。それでも、おじいちゃんが創り出したような色は作れない。

 おとなになってもやっぱり悲しいことはあって、そんな時はチョコレートを持ち出す。もう、黙って抱き寄せてくれる人はいないし、チョコレートを分け合ってくれる人もいない。7色の絵の具でいくつもの色を作り出してくれる魔法使いもいない。

 けれど、記憶を辿れば、そこにおじいちゃんの温もりを思い描くことができる。

「チョコレート、食うかね」

優しい声が聞こえてくる。チョコレートを一口かじる度、おじいちゃんの笑顔と色の魔法が思い浮かぶ。

 そうして私は、あの頃のように、いつしか笑顔になっている。もう会えなくてもきっと、私が憶えている限り、おじいちゃんはここに居てくれるのだ。



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大切にしたい思い出がふと思い浮かぶとき、その思い出の中の大切にしたい人とは、もう会えないこともあります。そんな時、その人がくれた思い出に、恥じることのない生き方をしたいと思うのです。

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