こいぬ座の教え

和泉眞弓

こいぬ座の教え

 星座を習う頃おれは、窮屈な家を抜け出しては、星の瞬く冬の夜空を見上げていた。真夜中になるとオリオン座が天高く立ちあがり、冬の大三角形がおおきな陣を張る。赤々と燃えるオリオン座の一等星ベテルギウス、青白くひときわ目を引くおおいぬ座のシリウス、そしてこいぬ座の一等星プロキオン。どれもあかるく、一瞬にしてそれと判別できる。なるほど、冬の大三角形の名にふさわしい。

 ところでおれがどうしても納得いかないのが、こいぬ座だ。構成要素は星二つのみ。点が二つでは、何の形状も示唆しない。ただの線だ。こいぬよりもよほどふさわしそうな「かみのけ座」だって、星が三つもある。さしずめ、プロキオンを擁するために無視もできず、苦肉の策でおおいぬ座とニコイチでセットにしたんだろうが、それにしても単なる線をこいぬと言い張るのは、かなりの無理がある。星座早見盤と首っ引きでたらたら文句を垂れながら星を見ていたおれは、決してロマンチストではなかったが、今思えば、矮小な生活がそれなりに息苦しくなっていたのかもしれない。真夜中に星を見上げる時、おれの頭頂部は北極星の引力にひかれ、さまざまの重力をわきにおき、吊られてすんと背がのびるようだった。幸い、おれには三等星ほどの学力があった。ライバルがいなければ、一点めぼしく見えるぐらいには輝いていただろう。小さな町を飛び出すのには、ぎりぎり足りる光度だった。

 おれは推薦で東京の大学に進学した。眠らない街の灯りがむらさき色に反射して、真夜中もなお東京の空は薄明るく、マイナス一・五等星のシリウスすら見えるかどうかあやしかった。ましてや、三等星など。雑多に混淆したその果ての、どぶ色のうねりにおれが呑まれるのは必然だった。だがいったん呑まれてしまえば、都会の懐は思うより深く、どうあろうと対応する居場所が無段階にあり、それぞれが相応の場所で息を継いでいることがわかってきて、かえって気安かった。

 「一緒に何かおもしろいことやろうぜ」事務所に所属しモデルをしているという颯太が、どうやっておれを個体識別し、おれに向かって声をかけてきたのかはわからない。何らかの集団に入りそびれふわふわと学内を漂っているおれみたいのは、夏になると少数派だった。颯太と並んで歩くと、一人の時とは周囲が明らかに違うのに気づいた。進行方向の視界の端々に、女子の強い視線をちらちらと感じる。気のせいレベルではない、あからさまに取り扱いが異なっている。おれはただ颯太と居るだけで、一人では決して見られない景色を見ることができた。これが海を割るモーセの快感か。こいぬ座の、プロキオンの相方の、三等星の気持ちが、情けないが今ならわかる。捨て置けない一等星と縁ができれば、あとはまわりが意味をつくってくれるのだ。

 颯太狙いで近づいてきた女子のおこぼれにあずかることも、稀にあった。その延長線で彼女もできたが短かった。彼女に「わたしのどこが好き」と聞かれて、後から考えればその彼女にしかないニッチな特異点を挙げるべきだったと思うのだが、その時のおれはというと、そこそこ可愛くておれを好ましく思ってくれていてエッチさせてくれる「彼女」がいればいいというのが本音だったので、返答に困って毎回「全部好きだよ」と言っていたらふられてしまった。

 おれと颯太は講義そっちのけで学生起業セミナーに通うようになり、意識の高い社会人を顧客ターゲットにしたブレインストーミングルームを立ち上げた。あの時は最高潮に盛り上がった。人脈は颯太、資金はほぼおれの貯金から出した。開店してみると閑古鳥で、家賃も払えないまま閉店し、颯太とは連絡が取れなくなった。気づけば進級のための単位が足りない。不本意に頭を下げる就職活動や会社勤めにはすでに魅力を感じなくなっていたので、おれは迷わず大学を中退した。今はバイトで身を潜め飛竜の時を待っている。健康ならば食いつなげる都会はありがたい。

 おれの健康な身体は、健康ぶるまいの一環としてただしく女を欲した。マッチングアプリで出会ってみたが、飯代がかさむばかりで実りがない。おれはいったい何をどうやって女と親密になり先の関係まで持てていたのだろう。学生だったからできたのか。必須入力項目である年収欄がいまいましい。春のぬるい蠢きにつられて、無性に非日常を召喚したくなったおれは、素裸にロングコートを羽織って歩くことをしてみた。スースーと風が通ってなんとも落ち着かないが、まるで自分一人で露天風呂を一週間借り切ったような、えも言われぬ解放感があった。コートの下は一糸纏わぬ姿であることを知らない女たちが、すました顔ですれ違っていく。布一枚下の非日常と至近距離で通りすがっていく女たちを、おれだけが知っている立場で眺めるのはご機嫌で、まことにスリリングだ。事実の両面を知っているのはおれだけで、日常を続けるか、秘められた事実を明かすか、どちらの主導権もおれにある。裸コートで歩くことがすでにタガのはずれる準備になっていた。このままでは日常は変わらない。おれだけが知る、誰かにそれを示したい。

 「キャーッ」

 悲鳴を聞いた瞬間、快感が貫き、同時におれは打たれたように気づいてしまった。

 これはこいぬ座だ。

 おれが局部を出し、それを見る相手がいれば、誰であろうと瞬時に性的関係になれるのだ。なんという自由か。見れば成立、恥ずかしがればなお、確かに性的であることが相手との間で真実になるのだ。叫んだ女が携帯を取り出して、誰かに電話をかけている。ちょっと待て。こいぬ座は星二つで成立し、完結しているんだ。野暮なことはやめてくれ。おれはコートの前を閉めて速足になる。ベテルギウスの赤が点滅しながら近づいてくる。

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