矜持が示したその未来

笠緖

保延六年 長月の頃

 ――去る、九月二日。兵衛佐局ひょうえのすけのつぼねが、第一皇子みこを御産みになられたらしい。




 中宮・藤原聖子ふじわらのきよこがその知らせを聞いたのは、時世ときの関白・藤原忠通ふじわらのただみちからだった。

 実父と言えども、中宮となった身から見たら臣下筋。きっちりと隔てられた御簾の向こう側で、それでも歯噛みする父のおもては嫌になるほど、はっきりと見えた。

 暦の上では秋とはいうものの、いまだ暑さの盛りを過ぎてはいない。

 外で蝉の鳴き声が痛いほどに鼓膜を叩き、ときおり慰め程度に流れる風は熱され、じっとり湿っていた。

 もうこうした気候になり二か月は経つ。すっかりこの空気に慣れたはずの肌が、それでもこの空気を殊更不快に思うのは、明らかに父から告げられた言のせいだろう。


「そう、ですか……兵衛佐局が……」


 それだけを唇に乗せると、聖子は傍らの脇息へと肘をついた。さら、と細く小さな背中で豊かな髪がうねるように流れる。

 兵衛佐局――。

 源行宗みなもとのゆきむねの養女として、昨年内裏に出仕してきたばかりの女房のひとりである。取り立て器量に優れた、というわけではなかったが、伏し目がちなそのかんばせは、たおやかという表現が一番ふさわしいと思える――そんな女だった。

 彼女に夫である今上の手がついたという事は、今の今まで聖子の耳には届いていなかった。

 恐らく、意図的にそれは隠されていたのだろう。


「中宮さま。如何なさるおつもりですか」

「……如何も何も」


 聖子は軽く首を振った。鬢徐びんそぎの下がり端が、常よりも白くなった頬にかかる。


「既に皇子みこが御生まれ遊ばされたものを、わたくしにどうこう出来るわけもないではありませんか」

「ですが……っ!」

「お父さま。御腹立ちになられるお気持ちはわかりますが、主上おかみに初めての御子が御生まれになったのです。わたくし達はまず、それを言祝ぐべきではありませんか」

主上おかみの一の宮の生母という立場を、奪われたのだぞ! そなたの胎から生まれた子でもない皇子みこを、私が言祝げるとでも思っているのか!」

「……お声が大きゅう御座います。人払いをしておりますが、どこに人の耳があるかわからないのがこの内裏で御座いましょう」

「……本当に、何故、このような事に……。何のために、当家は幼少の主上おかみに、似合いの年頃であったそなたを添わせたのか、わからなくなるではないか……っ」


 父、と呼んだからだろうか。気づけば忠通の言葉が、中宮の後見である関白のものではなく、聖子の親としての色が強くなっていた。


「そもそも、東宮さまをそなたの養子に迎えた事が間違いであった……」


 忠通は、まるで独り言のように、心の奥底にずっと溜まっていただろう泥のようなものを吐き捨てる。けれど人払いをしたこのへやで、距離もさほど遠くはない彼の言の葉など、聞きたくなくても聞こえてしまう。

 聖子はぴく、と眉の間に小さく皺を刻むと、脇息に預けていた体重を自身へと戻し、居を正した。しゅる、と衣擦れの音がこだまする。


「お父さま。東宮を我が子とせよと申されたは、鳥羽とばの院さまで御座います。治天の君の願いを、誰が拒絶出来るのですか」

「わかっておる! だが、そなたはまだ十九。今後、如何様にも皇子みこを望めるのではないか」

「わたくしに皇子みこが生まれたならば、東宮は如何様にも廃する事は出来ると仰られたのはお父さまでした」

「……ッ!! だが、東宮を得てから、主上おかみの寵がそなたから離れた事は、事実であろうッ!」


 怒声と言っても過言ではない父の言葉に、何事かと女房衆が顔を見せてくる。その気配に気づいたのか、忠通は何度か喉を鳴らし、日頃の気難しげなおもてへと表情を塗り替えた。

 その後、埒が明かない言葉を何度か往復させた後、彼は退出して行った。その背は、昔、まだ入内する前――「聖子」と柔らかな声で呼び可愛がってくれていた父のそれよりも、大分小さくも見えたし、同時に巨大なものにも思えた。


(いつから、かしらね……)


 父を、父と思えなくなったのは。

 いつからだっただろうか。

 彼を、関白として――臣下として、見るようになったのは。


  ――だが、東宮を得てから、主上おかみの寵がそなたから離れた事は、事実であろうッ!


 先ほどの忠通の言の葉が、鼓膜の奥で蘇る。

 確かに、その通りだ。

 聖子が入内した時、今上は十一歳の子供だった。

 かくいう聖子も、八つの幼子だった。

 四方よもに侍る大人たちには、様々な思惑があったのだろうが、今上と聖子は子供らしくふたり一緒に育っていった。始まりこそ、子供のひいな遊びのような夫婦だったが、それでも聖子が月のものを迎えた後、すぐに本物の夫婦となった。

 聖子は優しく楽しいお兄さまだった今上が大好きであったし、恐らく彼も聖子を慈しんでくれていた。過信するわけではないが、愛されていたと思う。

 ――聖子が、鳥羽院とばいんの子を養子に迎えるまでは。


  ――中宮。何故、そなたが父上の……、鳥羽院の子を養子にせねばならない?


 一年ほど前だろうか。

 夜、彼の寝所へ呼ばれ、足を踏み入れるなり、手を取りそう言われた。

 当時、今上帝は聖子のほかに妃はなく、手をつけた女房もいなかったはずだ。


  ――朕は、そなたに我が子を、東宮を産んで欲しいと思っている。真の夫婦になってから、まだ数年。今後、我らの間に子はいくらでも作れるだろう? 我が子に、跡を継がせたいのだ。


 それはきっと、生まれた時より実父である鳥羽院に疎まれ続けてきた彼が、零した本音。きっと、ずっとずっと帝位にありながらも、「自分の家族」を求めていた、彼の本音だった。

 けれど、聖子はそれを頷くことが出来なかった。

 気づけば、夫であった今上帝との間には深い溝が出来ており、そうして知らぬ間に彼は他の女と子を作り、産ませていた。


(だから、主上おかみに恨み言を申し上げるような、そのような立場に、わたくしはない……)


 そもそも、天皇という存在は、その尊い血を絶やさぬために数多の女人に子を産ませることが仕事のひとつだ。天皇のただひとりの妻である中宮位にある聖子は、それを言祝ぐことはあっても、恨み言を述べるなんて間違っている。


(間違っている――、わかっているけれど……っ!)


 ダンッ! と聖子の小さな拳が脇息を叩く。

 わかってはいるが、それでも夫があのたおやかな兵衛佐局に触れたのだと、自身の時と同じように優しく睦言を囁いたのだと思うと、胃の腑からふつふつ怒りが沸き上がった。


  ――主上おかみの一の宮の生母という立場を、奪われたのだぞ!


 きっと父は、中宮である自身を差し置いてよその女に皇子みこを産ませた事を怒っている。


(けれど、わたくしは違う……)


 夫の、あの手が他所の女に触れた事そのものを、厭うている。

 やり切れない感情が吐き気のように込み上げてきて、喉元を焼く。

 それは外に響く蝉の声のせいでも、涼しさを纏わない風のせいでもない事に、聖子は気づいていた。

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