後
元来物事が長続きしない性分だった私が三年勤務し続けた場所だった。まさか自分が辞める前に会社がなくなるとは思わなかったな、と自嘲してアルコールを呷る。世界がどうにかなっている中で生き続けるのも馬鹿らしくはあったけれど、死に方を考えるよりは酒浸りの方がマシだと思考した結果だった。
そうして時間を潰す中で公園に現れたのが佐瀬未幸だった。彼女は砂の敷き詰められた敷地内の一点で立ち止まると、以後三時間そのままの状態で立ち続けていた。私は興味本位からその様子を眺めていたものの、三時間が経過して嗚咽が聞こえ始めたあたりで駆け寄って、そのままミユキを慰め始めた。それが二人にとっての一日目にあたる。
ミユキは谷和の自宅の近所に住む既婚女性だった。戦地に向かった旦那を待ち続け、予定されていた機関の日に約束の場所で待っていたが、彼は終ぞ訪れなかったという。そして未亡人になった。私は自分の状況を思いながら、いよいよ世紀末だなと考える。そして、実は自分は職をなくして公園で酒を飲むしかやることもないと言って笑ってみせた。
それから三日間、ミユキが公園を訪れることはなかった。
しかし四日後、私が変わらず公園にいると、顔のやつれたミユキが現れて、隣に座った。他愛のない会話をして二日目が終わる。
三日目以降も、私が公園にいるとミユキは現れた。理由を問うと、「私もこれくらいしかやることないから」と言い、「それに、谷和さんがいるから」と付け加えた。驚いて彼女の顔を見ると、照れくさそうに俯いた。「都市計画ではここもいずれ放棄されるそうです。友達もみんな、この街から去りました。……でも、私は、あの家を捨てられなくて……」
私は騙されている可能性を頭を振って消しとばしながら、「私でよければ、まぁ、話くらいなら」と言った。気休め程度にしかならないだろうが、その気休めが重要な時もあると考えたからだった。特に、こんな時には。
ミユキは礼を言ったが、その後に会話は続かなかった。こっちもなんと声をかけるべきかわからず、酒ではなくコーヒーを啜った。結局その日は何もせずに、ただいるだけで一日を終えた。変化があったのは翌日からだった。
日課の如く公園に向かうと、既にミユキがベンチに座っていた。私の顔を見るなり表情を綻ばせて「おはようございます」と挨拶をする。私も遅れて「どうも」と軽く会釈した。
ミユキは手元に編みカゴを一つ抱えていて、視線を向けると「お昼を、作ってきたんです。よろしければ、ご一緒に」と遠慮気味に言った。私はそれまで体験したことのないイベントに面食らいつつも、「ぜひ……」と言うのを忘れなかった。ちょうど昼時で、朝食を抜いたために空腹なのは確かだったからだ。
どうぞ、と手渡されたシンプルなおにぎりは、何年ぶりかの他人の手料理だった。私は、失業するまでずっと自分のことに精一杯で、他の誰かと一日過ごすということもしてこなかったな、とこれまでを振り返って考える。そして、そういう余裕ができたという一点においては、倒産も悪いことでもなかったのかもしれない、とミユキを見つめた。
「めっちゃうまいです」
「よかった」
ミユキは顔を綻ばせて、おにぎりを口にした。
そよいだ風にミユキの長髪が揺れる。私は、こんなささやかな光景さえも、いつしか漏れなく失われるのだと思った。終末時計が十二を示すのも、そう遠い未来ではない気がした。
ミユキと私にとって、公園がある種の特別性を持っていたのは紛れもない事実だけれど、ともに過ごした時間がそこに限定されるわけではなかった。二人はショッピングや食事、昼過ぎのお茶もしたし、会話することなく本を読んだり、家で映画鑑賞に耽ったり、果てには人気のない海を見に行ったりもした。それは言ってしまえば、付き合いたての恋人同士がしそうなことでもあったし、あるいは自分と世界両方の先行きを見失った人間が、同じような孤独を感じている相手と決行した、小さな抵抗でもあった。いつか死ぬとも、それまでは耐えられるように、生きていけるようにと傷を舐めあって、ゆるやかな破滅へと行進するための儀式だった。
友達と言うにはいささか苦しいこともした。自分を温めてくれる毛布をなくしたミユキと、己の冷えを自覚した私は、手を取り合うことで寒さに耐えることを選んだ。皮膚を伝う確かな温もりを持って、それができる限り続くことを願っていた。
「ミツキさんは、世界の終わりに何が起こるか、知ってる?」
「いや……わかんないです」
眠りにつく前、暗闇の中で互いの存在を感じながら、密やかに囁き合った。「じゃあ、教えてあげる」とミユキは言った。
「みんな、次の世界で生まれ変わるために、一斉にスキャンされるんだって……」
「スキャン……」
「個人を構成する生物学的要素とか、人格をかたちづくる要素とか、そういうのを全部コピーして、新しい都市で再生するの。そういう計画なんだって」
「都市伝説?」
「うん」
ミユキは愉快そうに笑った。私は真実がどうあれ、彼女が楽しそうであれば別にいいか、と考えた。いつか終わるその時に、希望があるのとないのとでは、色々と違うだろう。
「それなら、来世でも会えますね」
「またあの公園で、谷和さんがお酒を飲んでて、今度は夫も一緒に……」
「私は失業するの確定ですか」
「違うよ、谷和さん、公園でお酒飲んでるの妙に様になるから」
「それ、褒めてます……?」
褒めてるよ、とミユキは言って、ならいいか、と思う。仕事も続けながらミユキに会えれば一番だけど、まぁ最悪職を失っていても構わないだろう。今こうして、どうにかやっていけているのだから。
「私、旦那さんに嫉妬しちゃいそうですけどね」
「私のためにバトルしてもいいよ」
「強気だな……」
勝てるもんだろうか、と空想していると、ミユキが布団の中で指を絡めた。私は手を握り返して、「また会えますよ」と呟いた。
八十七日目。両親の死を受けて、一度帰省することを決めた。長いこと顔を合わせていなかったどころか会話すらしていなかったこともあって、顔も声もいまいちよく思い出せなかったけれど、親は親だった。
とっとと戻ってくると言って未幸と別れ、鉄道に乗った。その翌日、広域破壊兵器の投下が、全国に予報された。
死ねばどうせみんな灰だ、と親との別れも早々に駅へと駆け出した。地下シェルターへ避難する人の波に逆らって、まだ動いているものがないかと探すけれど、そんなものがあるはずもない。悪態をつきながら通話をかけても繋がらない。
ただ、怖い、と思った。
もしかしたら、二度と会えないかもしれない。もしかしたら、二度と話せないかもしれない。もしかしたら、二度と触れないかもしれない。
それだけで、どうしようもないほどの寂しさが意識を覆い尽くす。溜息に似た呻きは自分のもので、人々の喧騒の中で、あっけなく掻き消された。
だから、そんな時にメッセージを受信して、慌てて端末を取り落としそうになった。
発信者は、未幸だった。
『公園で待っています。また、会えるときまで』
遠く、閃光と轟音が弾け、遅れてきた衝撃に地面へと叩きつけられる。それが爆発によるものだけでないということに気づいた時には、巨大なキノコ雲が墓標のように立ち上って、吹き付ける風は砂埃で溢れていた。
言葉もなかった。失ったのだという思いはゆったりと近づいてきて、一息に加速して私をうちのめした。ミユキ、ミユキ、ミユキ。私の声が頭の中で反響する。ミユキ、と何度呼んだって返事はなかった。ミユキはきっと死んだだろう。ああ、と呻く。確信があったのだ。ミユキはもう、待つことの痛みに倦んでいたのだと。
ミユキは、自身のデータがスキャンされると信じて外に出ていたはずだ。でもそれは間違いだった。その時コピーされたのは都市構造のデータだけで、人の構成情報が保存されるようになったのはもう少し後のことだった。インフラのほとんどが潰えて、ミユキがどうなったかはわからなかった。ミユキは死んだだろう。けれど私は諦めるわけにはいかなかった。もしかしたらシェルターに入っていて生き残ったかもしれない。また次で出会えるかもしれないと期待するしかなかったのだ。
終末時計はいよいよ十二を指し示して、私たちは解析を待っている。空は煌々と燃え盛り、終わりは黄昏の色をしていた。
また、会えるときまで。いつか、どこかわからない次の世界で、私は彼女に会えるだろうか。今の私には予想もつかなかった。次の私は私じゃなくて、今の私はここで打ち切り。私は結局どこにも行けず、こうして失われていく。
けれど、なればこそ、願うことには意味があるだろう。希望があるのとないのとでは、色々と違うのだから。
これは私の影送り。地には伸びず、空にも映りはしないけれど。
彼女が待つあの場所へ。
残影よ、届け。
Silhouette 伊島糸雨 @shiu_itoh
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます