Silhouette
伊島糸雨
前
その女は、まるで誰かを待っているみたいに、ずっとそこに立っている。
私に背を向けて、俯いた状態で棒立ちになっている。私がこの公園に初めて来た時にはすでにいたから、少なくとも六十七日以上は同じ姿勢を保っていることになる。
近隣住民から聞くところによると、どうやらそれは、過去の記録の残影なのだそうだ。
最初こそイカれたヤツもいたもんだと敬遠していたけれど、そういう話を聞いてからは好奇心の方が勝って、公園に足繁く通うようになった。年季の入ったブランコに腰掛けて、日がな一日中女を観察することもあった。
そうしたら、時々遊びに来る子供連中とも少し仲良くなって、一緒にパピコを吸いながら合同観察会を開いたりもした。「ユーレイだよユーレイ」とはカードゲームが馬鹿みたいに強い少女の弁だった。「なんか恨みがあって誰かを待ってるんだよ」と、非常にふわっとした持論を展開していた。
そんな少女のことをよく盗み見ている少年は、「そんなオカルトあるわけないじゃん」と強気だった。「世界のバグだって父さんが言ってた」と詩的な表現を引用していた。「あ、そ」と素っ気ない少女の応対にはちょっぴりしょげていた。
独自調査によると、科学的な話では、少年の父親の言っていることが正しいようだった。都市構造体の表面に旧世界のレイヤーを貼り付けるにあたって、時折ノイズのように余計なデータが入り込むことがあるのだという。それがこの世界で言うところの“都市伝説”という類のものの正体、らしい。
そういう話になると、あの女もじきに都市の自己監視プログラムに修正されるということになる。六十七日以上放置されている理由は、システムのサボりくらいしか思いつかないけれど、まぁなんだっていいだろう。
私としては、いなくなってしまうことに寂しさを覚えないでもないわけだけれど、そんな感傷を抱いているのは私くらいなんじゃなかろうか。立派に労働という役割を与えられている連中は、平日の昼間に公園にいたりはしない。
六十七日も同じ時を過ごしたら、それはもう友達かなんかだろうと思う。いや、友達ではないか。まぁでも、じゃあなんだと言われると困るから、友達ということにしておこう。名前は知らない。興味もなかった。
問題なのはその在り方だ。意思も意識もなく、存在さえ曖昧なまま、ただ記録としての役割だけでそこにい続ける。少女の言うように、それは幽霊のようなものだ。過去の再現であり、今となっては不要になった余剰データ。誰からも必要とされず、いつか消去される日を棒立ちになって待っている。六十七日以上も、誰からも存在意義を見出されることなく。
私の中にあったのは、同情とか憐憫とか、あるいは共感と言われる類のものだ。二つ買ったパピコを三人で分けて、余ったやつをじゃんけんで奪い合いながら、ぼんやりと考えていた。この女にもくれてやればきっちり割り切れるのにな、とか。
情報的に見ても、私なんかよりよっぽどお粗末な女の影に、私は何を見たというのだろう。自問自答するのは苦手ではないから、それらしい答えなんてのはすぐに出る。
単純に、似ていると思ったのだった。それはそうだ。共感なんてものは、近しい立場になければ発生し得ない。
私自身、この世界から何がしかの社会的役割を与えられているわけではなかった。漠然と生き、漠然と死ぬのが役割だとして、そこには社会性の欠片も求められてはいないだろう。ただ自由に選択し、昼間に公園でふらついたり、少年少女と遊んだり、情報的幽霊女の観察に耽るのが私の生き方のおおよそだ。そんなのにあの棒立ち女とどんな違いがある。必要がなくなればお払い箱なのは、お互い様だった。
私は私がどんな人間なのかを知らない。重要なのは今なのであって、過去は重視されていないからだ。けれども、あの女だけは過去に在った。今ここに至らなかった人間の、切り抜かれた過去がある。
調べてみれば、そんなに入り組んだ話でもない。棒立ち女のエピソードは、だいたいこんなものだ。
【昔々、旧世界でのことです。まだ平穏の面影が残っていた頃、女は一人の人間を待っていました。ところが、女がいくら待っても待ち人は現れません。女はただ待っていました。微動だにせず、ただ待っていました。】
結局、女が待ち人と会うことはなかった。緊急警報が鳴り響くと同時に都市データの強制保存が実行され、その過程で照射された分解・解析光を全身に浴びて死亡した。そもそも、その日は広域破壊兵器の投下が予測で出ていて、地下への避難が勧告されていたのに、女はすべてを無視してそこに立っていた。完全に自爆だ。どうしようもない。
女が望んだ人間に会うことはなかっただろう。待っていた相手がどんな人間だったのかは、さすがにデータとして残っていなかった。私が閲覧できたのは、都市の表層を誰がどう移動したかだけで、現在の都市構造体に移植された都市レイヤーの年代と、女が立っている位置から記録を逆算したに過ぎない。女に直接話を聞ければいいが、そうもいかないだろう。
個人の構成情報が記録・保存されるようになったのは、女が死んだもう少し後になる。どうにもならないという瀬戸際になって、現在を存続させることを放棄し、次に託すことに決めたわけだ。
だから、おそらく女はここにはいない。記憶データも残っていないだろう。残された影法師も、永遠には残らない。女の真実は、誰も知らないまま、消えるのみだ。
六十七日目から三週間後の八十八日目。私は女の最期を知る唯一の存在として、女が消えるまでを見届けようと心に決めていた。毎日毎日通い続けて、八十八日目の早朝、日の出の前に公園に向かった。女は相変わらず、誰かを待っている。
雰囲気を楽しもうと買った缶コーヒーに口をつけながら、役無しの私は役無しの女を見つめていた。この頃になると、私は女にある種の愛おしささえ感じつつあった。仲間、というか、何十日も同じ時間を共にした連帯感というか、愛着というか。女の過去をかじったことにも原因はあるだろうが、まったく自分勝手なものだった。精神運動設定の規制が緩いせいだ、と責任を根本に転嫁するのも、精神運動設定の規制が緩いせいだ。
変化があったのは日が昇り始めた直後だった。それまでずっと金属の棒でも埋め込まれているかのように同一であった女の姿勢が、わずかにブレた。現実性を形作っていた粒子の塊にノイズが走り、曲げられていた首が、動く。
私は缶を地面に置いて駆け出していた。何が起きているのかわからなかった。棒立ち女は都市レイヤー上に紛れ込んだノイズであって、そこに動作性は存在しないはずだった。ある一点の切り抜きでしかなく、線では繋がらないはずだったのに、女は動いている。私の動揺を、意識の不在によって意に介することもなく、接近した私の前で再生される。
そして私は、初めて女の顔を直視した。
知らないはずの顔に浮かぶその微笑みを、どうしてか、懐かしいと思った。
「ああ……」
私は、この女を知っている。
彼女の口が動く。重みを増した時間の中で、私はそれを目で追って、やがて、音もなく紡がれた言葉の、その意味を知った。
それは、この世界で初めて投げかけられた、愛情を示す言葉だった。
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