4章「残月の鬼のしもべ」その7

 やがて彼女はしばし間、意識の奥底を漂泊した。そこは冷たく暗い水の中だった。呼吸は出来なかったが、苦しくはなかった。ただ、自分の体がゆっくりと下に沈んで行く感覚だけがあった。


 ああ、そうか、自分はもう……。彼女はそこで自らの運命を悟った。そう、自分は残月の、虚弱な鬼の分際で、竜薙の風花に二度も触れてしまった。だから、もう助からない。そう思った。


 だが、そこでふいに目の前が明るくなった。同時に、周りの水がとてもあたたかくなった。それはまるで、誰かの肌のぬくもりのようだった。


 この感じ、どこかで――。そう思った瞬間、彼女はまどろみから覚醒した。


 気がつくと、彼女は華伝の部屋のベッドの上に横たわっていた。一糸まとわぬ裸で。そして、一人の男の胸にぴったりと身を寄せた状態で。彼もまた、裸だった……。


「か、華伝!」


 びっくりして、とっさに彼から離れたが、


「ルカ! 目を覚ましたんですね! よかった!」


 彼のほうから勢いよく抱きついてきた。むぎゅう。その肌のぬくもりが彼女をいっぱいに包んだ。それはとても心地よくて、けれどとても恥ずかしかった。彼女は顔が熱くなってしまった。


「なぜ、私もお前も裸なのだ?」

「寝ている間に、ルカの体がすごく冷たくなってたんです。だから、他にどうしたらいいのかわからなくて……」

「それで、私をあたためていたのか?」

「はい。ルカが目を開けてくれて本当によかった……」


 彼は彼女を顔をのぞき込み、とてもうれしそうに笑った。その瞳は淡い青い色のままで、うっすらと涙が浮かんでいた。さらに、髪も銀色のままで長い。


 ルカはそんな彼の無邪気な笑顔を見ると、いっそう顔が熱くなった。彼への愛しさが胸いっぱいに込み上げてきた。


 そして、だからこそ、彼女は再び彼から離れた。


「は、話はわかったから、そんなに私にくっつくな。お前を食い殺してしまうぞ!」


 ベッドの上で彼に背を向け、裸のまま膝を抱えて叫んだ。この状態で自分の欲望を抑えられる自信が、まるでなかった。


 だが、彼は「だいじょうぶですよ」と笑った。そして再び後ろから抱きついてきた。


「でも、このままでは私は――」

「いくらでも食べてもいいですよ。今の僕はもう、ルカにちょっとかじられたぐらいじゃ、死にませんから」


 華伝はルカの肩にあごを乗せ、流れる長い銀色の髪を手で弄んだ。


「ああ、そうか、お前は……」


 ルカははっとした。そうだ、彼は鬼人とやらだった。そして、それは無限に近い魂生気を持つと言われている存在だった。実際、彼の欠損した体がすぐに再生する様を目の当たりにしたし。


「ほ、本当に、大丈夫なのか?」

「はい」

「本当だな? 絶対に死んだりしないな?」

「もちろんです。ルカは本当に心配症だなあ」


 彼はルカの肩を両手でつかみ、体を自分の方に向けさせた。そして、彼女を胸に抱き寄せた。「どうぞ、召し上がれ」と、やさしくささやきながら。


 本当に、大丈夫だろうか……。彼女はどきどきしながら、彼の胸に唇を軽く押し当て、ゆっくりと首のほうへ這わせて行った。そして、彼の鎖骨を指でなぞったのち、慎重に、おそるおそる、首筋に噛みついた。かぷっ!


「あ……」


 思わず少し声が漏れた。口から流れ込んでくる彼の魂生気はとてもあたたかく、彼女の体の奥深くの、ずっと乾いていた部分に浸み込んで行くようだった。それはとても気持ちよくて、幸せな感覚だった。そして、その感覚でどこまでも満たされていく気がした。少しでも彼が危うくなったら食べるのをやめよう、そう考えていたはずの彼女だったが、すぐに理性を失った。より深く彼の体に食いつき、より強く彼の体に手足を絡ませて、彼を貪った。食べるほどに、彼がどんどん欲しくなる気がした。


 やがて、「満腹」になった彼女は平静さを取り戻したが、その時は彼を押し倒し、馬乗りになっている状態だった。彼の首まわりや肩や胸にはたくさんの歯形ができていて、唾液でべとべとだ……。


「す、すまない、華伝……」


 いくらなんでもやりすぎだ。彼女はまた顔が熱くなってしまった。初めてなのにこんなにがつがつしてしまって、自分が恥ずかしい……。彼はそんな彼女を見て「気にしないでください」と笑った。そして、上体を起こした。


「どうですか、おいしかったですか?」

「ああ。すごく……よかった……」


 顔を見て答えるのは恥ずかしいので、彼の胸板に頬を寄せて、小声で言った。


「私はずっとお前が欲しかった。欲しくてたまらなった。だから、今はすごくうれしい……。うれしすぎて、頭がどうにかなってしまいそうだぞ」


 言ってるうちに胸が熱くなり、目から涙がぽろぽろこぼれてきた。自分は世界一の果報者だ、そのうち罰が当たるのではないかとすら思えた。


「僕もすごくうれしいです。あなたを僕で満たすことができて、すごく……幸せです」


 彼は彼女を力強く抱きしめ、ささやいた。その吐息は熱っぽく、彼女の体の中心を震わせた。


 二人はそれから、華伝の部屋のベッドに腰掛けて一緒にブルーベリーのミルフィーユを食べた。二人とも、素肌に軽く一枚羽織っただけの、だらしない恰好だった。時刻はすでに夜の十一時を回っていた。窓の外は真っ暗だ。


 ルカは時折彼の膝の上に乗り、彼にミルフィーユを口に運んでもらった。今はとことん甘えたかった。彼も楽しそうに笑って、そんな彼女のわがままを聞いた。彼と体を重ねながら食べるミルフィーユの味は格別だと、彼女はしみじみ思った。あったかくて、甘くて、おいしくて、そして、彼のことがとても愛しかった。


「……華伝、お前の体は少し血なまぐさいぞ」


 やがてミルフィーユを全部食べ終えたところで、彼女は彼の胸の中でつぶやいた。


「血の付いた服は全部脱いだんですけど、まだ臭うかな」

「シャワーを浴びてきたらどうだ」

「そうですね。じゃあ、一緒に」


 彼はひょいと彼女を懐に抱えて立ち上がった。「私を勝手に連れ去る気か」彼女ははしゃぎ、手足を軽くばたばたさせて抵抗するふりをした。


 しかし、いざ着ているものを全部脱ぎ捨て、一緒に浴室に入ると、彼女は急に恥ずかしくなり、彼に背を向けた。浴室の照明はひときわ明るくて、未熟で子供っぽい自分の体を余すところなく彼に晒してしまうことに気付いたのだ。思わず手で胸などを隠し、縮こまってしまう。


「そんなに隠さなくても。さっき、いやというほど見せてくれたじゃないですか」

「で、でも、私はこんなに胸が小さくて……」

「そんなの知ってます。何年一緒にいると思ってるんですか」


 彼はふとしゃがんで、彼女の胸に手を回し、むにっと雑に乳房の肉をつまんだ。その不意打ちに、彼女は変な声を出して飛びあがった。「小さいけど、全然ないってことはないじゃないですか」彼女が振り返ると、彼はいたずらっぽく笑った。


「ルカ、恥ずかしがらないで。手をどけて、僕に全部見せてください。あなたは誰よりもきれいです。ずっと前から、十一年前から、僕はそう思っています」

「ほ、本当に?」


 下にへたりこんでうつむいていると、急にとてもうれしい言葉が聞こえたので、彼女ははっとして顔を上げた。彼と目があった。「本当です。何度でも言いますよ。あなたは世界で一番きれいで、美しくて、かわいいです。すごく。ものすごく」まっすぐ見つめられて、はっきりとそう言われると、人一倍恥ずかしがり屋の彼女の体温と心臓はもう大変なことになった。真っ赤になって「そ、そうか、わかったぞ」と、しどろもどろに答えるのが精いっぱいだった。


「でも、お前は今まで一度もそんなこと……」

「そりゃ、言えるわけないでしょう。あなたはいつも僕から逃げてばかりだったんだから」


 彼はくすりと笑って、彼女の手首をつかみ、そっと引っ張った。彼女はもう抵抗できなかった。小さな二つの胸のふくらみがあらわになった。彼はふとしゃがみ、そこに顔をうずめた。


 それはとても懐かしい感覚だった。出会ったばかりのころは、彼女の方が背が高くて、抱きしめるとこんなふうに彼の頭は彼女の胸におさまったものだった。


 そうか、もうあのころとは、何もかも違うのだな……。


 二人は立ち上がり、体を寄せ合ったままシャワーを浴びた。その間、彼女はまた少し彼の魂生気を貪り、その体を撫でまわした。よく引き締まった、精悍な男の体だ。そして、自分を差し置いて、一人で大人になってしまった男の体だ。ちょっぴり憎らしいような、さみしいような気持ちがこみ上げてくる。


「華伝、お前の体はもう何ともないのか?」


 ふと気になって尋ねた。


「ええ。傷はもう完全に癒えています。大丈夫です」


 彼は右腕を彼女に見せた。確かに、何の問題もないように見えた。しかし、そこで彼女は、彼が右腕を失った瞬間の光景を思い出し、身震いした。あの時は本当に、彼が死んでしまうのではと思った。


「華伝、あのときは本当にすまなかった。私はお前を止めるべきではなかった。あのままお前があれを斬っていれば、深手を負うこともなかったのに……」

「いいえ、ルカ。あれでよかったんです」

「何を言う、あれはお前の弟ではなかったのだぞ」

「そうですね。でも、僕はあのとき、本当に頭に血が上っていて、自分が自分でないような感覚でした。あなたを連れ去って辱めようとした彼がとてつもなく腹立たしくて、許せなかったんです。ただ彼を殺すことだけが頭にあって。けれど、その気持ちのままに彼を殺していたら、間違いなく僕は、今の僕でいられなかったでしょう。だから、あのとき、あなたが声をかけてくれて、僕はとても救われたんです」


 彼は彼女を胸いっぱいに抱き締め、耳元で言う。


「それに、あの後、僕は左紋の本当の気持ちを聞くことができました。あれはライが見せていた幻のようなものだったけれど、言ってることは真実だったと思います。僕は彼にとってひどい兄でした。彼の実の父親を殺し、幼い彼を捨てて家を去った。例えまやかしでも、本当の左紋がとうの昔に死んでいても、僕はあの場で彼を斬る資格はなんてなかったんです」


 ルカはその彼の言葉に、鬼人の伝説を思い出した。それは、邪悪な鬼から人を守る英雄のようなものであったという。だとしたら、確かに、あのまま左紋を斬ってしまっては、彼はしょせん悪鬼羅刹と同じで、決して今の姿にはならなかったのかもしれない……。


「ところで、あなたのほうこそ、体は大丈夫ですか?」

「ああ。もうすっかりよいぞ。お前があたためてくれたおかげだな」

「実を言うと、それだけじゃないんですけどね」

「え?」

「……あなたが眠っている間に、少しいたずらをしました。こんなふうに」


 彼はふとうつむき、彼女にキスをした。だが、それはただの口づけではなかった。重ねた唇から、彼の魂生気が自分の中に流れ込んでくるのを彼女は感じた。ああ、そうか。この感覚……。彼女は気付いた。それは夢の中で感じたぬくもりとまったく同じだった。そして、それは自分から彼に食いつくのとは違う喜びがあった。彼女は恍惚となり、彼の首に腕を回し、その口からあふれてくるものを小さな体でいっぱいに受け止めた。


「……私が眠っている間、こうしていたというのか?」

「はい。何度もしました。あなたの体はどんどん冷たくなって行って、他にどうすればいいのかわからなくて。正直言って、無茶なことをしたと思います。僕みたいな、自分でもなんだかよくわからない生き物の魂生気を注いで、残月のあなたが助かる保証なんて、どこにもなかった。でも、今はそうするしかないような気がしたんです」

「そんなことが……」


 彼女は彼の言葉に強く胸を打たれた。彼がそうしなければ、自分は間違いなく死んでいただろう。


「僕は、眠っているあなたにキスをしながら、願っていました。どうか生きていて欲しいと。また目を覚まして笑っている顔を見せて欲しいと。今日だけの話じゃありません。今までずっと、キスをするたびに、口移しで魂生気をあげるたびに思ってました。僕はあなたがいないとダメなんです。あなたと一緒じゃないと生きていけないんです」


 彼はいっそう力強く彼女を抱きしめた。


「僕はあなたが大好きです。誰よりも愛しています。恥ずかしがりやですぐ顔が赤くなって、不器用でどんくさくて、心配性で、泣き虫で臆病で、お菓子に目がなくて、卑屈で何かにつけて膝を抱えていじけてて、僕より年上なのにすごく子供っぽいあなただけど、僕はそういうところ全部好きです。とても愛しく思っています。だから、絶対に死んじゃだめです。これからもずっと僕と一緒にいてください」

「か、華伝……」


 どさくさにひどいことを言われたような気がする。けれど、伝わってくる彼の気持ちは彼女にとってうれしくてたまらないものだった。


「わ、私もお前のことを、あ、愛しているぞ……。だ、だから、なるべく死なないように努力する……」


 とっさに、彼の想いに応えなければと言葉を発したが、恥ずかしさが邪魔をして変な言い方になってしまった。


「なるべくって何なんですか」

「う、うるさい!」


 とても目を合わせていられなくなったので、彼の広い胸に額を押し当て、うつむいた。彼はそんな彼女を抱きしめながら、楽しそうに笑った。


 それから二人は、華伝の部屋のベッドで肌を重ねて、眠った。ルカはやはり幸せで、満たされた気持ちだった。彼のぬくもりに包まれて眠るのはとても心地よかった。


 けれど、翌朝目を覚ました時、彼女の隣に彼の姿はなかった。もしかして、霞か何かになって消えてしまったのだろうか。彼が鬼人などという伝説の存在になってしまったせいで、そんなことを考え、とても心配になってしまった。


 しかし、部屋を出て家の中を歩き回ると、すぐに彼を見つけることができた。台所で朝食を作っていただけだった。カッターシャツとトランクスにエプロンをつけた格好で。彼女はほっとした――が、次の瞬間、またぎょっとした。彼の髪の色が元の黒に戻っていたのだ。長さはそのままだが。


「華伝、その髪……」

「ああ、何か一晩寝たら元に戻ってしまって」


 彼は彼女に振り返り、申し訳なさそうに苦笑いした。その瞳も黒に戻っている。


「そんな……」


 彼女は心底がっかりしてしまった。これから毎日彼を食べられると思ったのに……。


「やはり、私が昨日お前の魂生気を食べ過ぎたからそれで……」

「確かに、たくさん食べてましたね。二十回までは数えてたんですけど、きりがないのでやめました」

「そ、そんなに?」


 彼女はまた恥ずかしくて顔が熱くなった。それではまるで、盛りの付いた獣と同じだ……。


「すまない、華伝。もう少し自重するべきだった……」

「いや、謝らなくても。あなたにたくさん食べられたことと、元に戻ったことは、たぶん全然関係ないと思います。それに、そのうちまたあの姿になれるような気がしますし」

「本当か!」


 落胆しきっていた彼女は、その言葉に大いに元気づけられる気がした。


「まあ、自分でもまだよくわからないんですけど……ところで、ルカ、その格好」

「格好って――あ」


 と、そこで彼女は自分が素っ裸であることに初めて気づいた。


「こ、これはその、健康法のようなものだ!」


 ゆうべさんざん見られたとはいえ、やはりまだ恥ずかしかった。とっさにしゃがんで、手と足で体を隠した。


「とりあえず、何か着てください」


 彼はそんな彼女を見て、おかしそうに笑った。

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