4章「残月の鬼のしもべ」その6
「お、まえ、は……」
華伝は右肩を左手で押さえながら、その男に振り返った。左紋よりはふた回りほど小さな体躯をした、骨ばった顔立ちの男だった。目はサメのように小さく、肌はしみだらけで汚かった。髪は白髪交じりの灰色で短く、額には小さな角があった。
「どうよ、俺様の迫真のお涙ちょうだいの演技。オニーチャン、すっかり騙されちゃったねえ」
男は華伝と目が合うと、けらけらと笑った。
「演技、だと……」
華伝は苦痛に顔をゆがめながら、男を睨む。
「そうそう。説明ついでに自己紹介しておこうか。俺の名はライ。れっきとした本物の鬼だ。そして、お前が今まで弟君だと思っていたのは、俺が変身してた仮の姿。俺の特殊能力でね、今まで食った人間の姿かたち、性格や記憶までを完全に再現できるってのはさ」
ライはふと自分の手の甲を口に当て、風船を吹くような真似をした。たちまち、手の甲の皮膚はふくらみ、人の――左紋の首そのものの形になった。さらにそれは手の甲から動き出し、肩から背中に、反対側の手の甲にスライドして移動した。
「お前も少しは知ってるだろぉ? 鬼にはそれぞれ特別な能力が備わってるってさ。俺の場合はこれってわけよ。言ってみれば、完全擬態ってところだな。はは」
「なるほど……左紋の形をした皮を被っていたのか。それで、いくら斬っても撃っても死ななかったってわけか」
「だいせいかーい! お前が的確に急所ばかりを狙うんでかえって助かったよ。そこ攻撃しても意味ねえってな。頭なんて、最初からカラッポだったしなあ」
ライは手の甲の上にできた左門の首を、もう片方の手で潰した。それは風船がはじけるように割れて消えた。
「お前の目的はなんだ? なぜ、左紋に化けて、竜薙の風花を手に入れようとした?
「そりゃ、復讐だよ。竜薙家の最後の生き残りのオニーチャン」
ライは鋭く瞳を光らせながら、にやりと笑った。
「俺の仲間が昔、あの家の人間に殺されたんだよ。その刀でな。六十年前になるかな。だから、俺はずっと復讐の機会をうかがってた。そして、そんな俺の前に、お前の弟が現れた。まさに千載一遇のチャンス! それに乗らないわけにはいかないだろォ? うまくやれば、竜薙の家の人間は皆殺しに出来る! 俺の仲間を屠った刀も壊せる! 実際、お前の弟ちゃんのキャラはよくできてたよ。本当に俺の都合のいい道化として働いてくれたよ、ははは!」
「……すべて、お前の計算づくってわけか」
眉間にしわを寄せ、脂汗を額ににじませながら華伝は言う。その欠損した右腕からは血が滴り落ちている。
「いやいや。実を言うと計算違いもあったぜ。竜薙の風花が鬼の術を無効化するとか、聞いてねえよって感じだったし、正直、鞘で殴られながら、いつ擬態が破られるかとビクビクもんだったぜ」
と、ライはいっそう禍々しく瞳を光らせ、華伝をにらんだ。そして、向こうに転がっている竜薙の風花に目をやり、「ま、しょせん封印状態じゃ、術の無効化にも限界があったみたいだけどな。瘴鬼のてめえがその刀の使い手だったことといい、ほんと、あぶなかったぜぇ」と、高笑いした。言葉とは裏腹に勝利を確信しているようだった。
「くっ……」
華伝もその思惑を察していた。このままではまずい。彼はそう考えたのだろう、すぐに竜薙の風花を取りに走りだす――が、そこで、ライは動いた。先ほどの左紋とは比べ物にならない速さで。
次の瞬間、華伝は即座に正面に回り込まれたライに体当たりされ、竜薙の風花とは反対の方向にふっ飛ばされていた。
「勝手に動くんじゃねえよ。竜薙家の最後の一人のお前は、ここで俺になぶり殺されるんだからなァ!」
とたん、ライの瞳が強く赤く光った。同時に、体勢を立て直そうとしていた華伝の体の動きがぴたりと止まった。その瞳はうっすらと金色にきらめいている。
ああ、そんな……。ルカはその光景に胸が潰される思いだった。鬼の瞳術を食らった。もう華伝に勝ち目はない……。
「これでお前は動けなくなった。意識だけはそのまま残しておいてやるぜ。痛みもな。自分の体がボコボコにされるのをじっくり楽しみやがれ!」
ライは拳を鳴らし、残忍な笑みを浮かべると、一瞬で華伝に迫り、殴りかかった!
「ぐ……」
彼の体はまた宙に浮いた。そして、そこでライは飛びあがり、膝蹴りを彼の腹部に見舞った。さらに、背中側からからひじ打ちも浴びせた。華伝は血を吐きながら地面に落ちた。一切何も抵抗できなくなっているようだった。
ライはそのまま素手で華伝をいたぶり続けた。瞳術で動きを封じている相手とはいえ、その動きの速さは左紋に化けていた時とは比べ物にならなかった。
「どうよ。サンドバッグにされる気分は? さっきまでとは立場が逆転しちまったなァ?」
ライはぼろぼろになっている華伝の喉笛を片腕でつかみ、地面にたたきつけながら、笑う。
「前みたいに、気合で瞳術を破れればなァ。ま、それは無理か。お前の弟に化けてる時の俺はぶっちゃけ、三十パーセント程度しか能力発揮できてなかったからな。で、今の俺は百パーセント。瞳術も完全だ。たかが瘴鬼のお前に破れるわけねえよな、ハッハ!」
「…………」
華伝は地面に顔をつけまま、眼球だけを動かし、そんなライを強く睨んだ。
「一応は褒めてやるぜ。お前はよくやったほうだよ。瘴鬼のくせにめっぽう強い。単純な戦闘能力じゃ鬼の俺と互角かもなァ。だが、残念だったな。しょせん、瘴鬼ってのは、俺達、鬼の下僕なんだよ。お前は鬼に瞳術でいいように使われるだけの存在なんだよ!」
ライは再び華伝を蹴り飛ばした。彼の体は地面を転がり、やがて仰向けに倒れた。
「無様だねえ、イケメン君」
そこでライはふと、何かを思いついたようだった。
「そうだ。お前のお綺麗な顔のパーツ、一つ一つ、バラしてやろう」
そう言うや否や、華伝にまた近づき、馬乗りになった。そして、「まずはこれかなァ」と不気味に笑い、彼の右目に手をかけた。
「や、やめろっ!」
ルカはとっさに叫ばずにはいられなかった。だが、次の瞬間、彼女が見たのは、小さな丸いものを華伝の眼窩からえぐり出すライの姿だった。
「もうやめて……」
怖かった。涙が出た。体が震えた。このままでは、華伝が壊され、殺されてしまう。そんなのは絶対いやだ。耐えられない……。
いったい、どうすれば彼を救えるだろう? 自分に出来ることは何がある? 彼女は懸命に重い体を起こし、周りを見回した。すると、少し離れたところに落ちている竜薙の風花に目が止まった。
そうだ、あれを拾って、彼の近くに投げれば――ライの瞳術は解ける! 彼女はすぐに動いた。重い手足を引きずり、地を這いながら、刀に近づいた。思うように動かない自分の体がもどかしかった。一刻も早く華伝を助けたかった。彼女がそうしている間に、ライはえぐり取った彼の眼球をこれ見よがしに掲げ、舌の上で転がし、もてあそんでいた。時間をかけて彼をじっくりいたぶるつもりのようだった。
しかし、竜薙の風花のもとになんとかたどりつき、その柄に手をかけたところで、彼女の全身に強い痛みが走った。彼女はうめき、刀を手放した。
これは、鬼封の祓いの力?
そう、鬼である彼女は、刀が持つその力に攻撃されてしまったというわけだった。これでは刀に触れることはできない。彼を助けることはできない……。
いや、できる! やってみせる! 今は痛みなど、感じている場合ではない! 彼女は勇気を振り絞り、再びその柄に手をかけた。そして、強い痛みの中、今度は力を振り絞り、その決して軽くはない一振りの刀を華伝達のほうに投げた。どうか、これで瞳術を打ち消してほしい。そして、彼に逃げてほしい。生き延びてほしい。自分はどうなってもかまわないから――。
彼女が投げた竜薙の風花は、華伝達から二メートルほどの場所に落ちた。その距離が瞳術をやぶるために適切だったのか、彼女にはよくわからなかった。なぜなら、次の瞬間、彼女の目の前には一人の鬼が立っていて、華伝の様子など全く見えなくなっていたからだ。
「なに場外で勝手なことしてんだよ、おチビちゃんよォ?」
ライは殺気で血走った赤い瞳でルカを見下ろした。その口にくわえているのは華伝の耳だった。
「狙いは悪くなかったぜ。でも、惜しかったな。俺の瞳術を無効化するにはあともうちょっと、五十センチは必要だったなァ」
ライは華伝の耳を噛み、飲み込んだ。そして、ルカの細い首を片手でつかみ、持ち上げた。
「う……」
苦しい。息が、できない……。
「邪魔くせえし、このまま首を折っておくか」
ライはその手の力を強めた。ルカの意識は遠のいていく――。
だが、そこで、何かが彼女の前を通り過ぎた。その気配は風のようで、しかし形は違った。それは人の――一人の男の形をしていた。
そして、気がつくとライは彼女の目の前から消え失せていた。その体は、近くの岩に激突していた。まるで一瞬のうちに風に吹き飛ばされたかのように。
「な、にが……」
起こったのだろう? 何も見えなかった。ルカはきょとんとして、目の前に立つ男を仰いだ。長身で細身の、銀色の長い髪をした男だった。その体は傷だらけで、右腕は欠け、瞳と耳も半分失っている。残された瞳の色は淡い青だ。まさか、彼は……。
「華伝、なのか……?」
「ええ、そうみたいです」
彼女と目が合うと、その男――華伝は穏やかに微笑んだ。目鼻立ちもその声も、まさに彼女のよく知っている彼のものだった。
だが、この髪や瞳の色はいったい……?
「て、てめえ……なんで勝手に俺の瞳術を破ってんだよォ!」
と、そこでライが起き上がりつつ叫んだ。
「それに、その髪と目の色はなんだ! それじゃ、お前はまるで……まるで……」
ライは焦りと恐怖を顔ににじませながら言い淀んだ。ルカはそこではっとした。銀色の髪、淡い青い瞳、そして、こうして近くにいるだけでも彼から伝わってくる、強い魂生気。それはまるで伝説の――。
「鬼人、なのか?」
「たぶん……」
ルカの問いに華伝はあいまいに首をかしげた。本人もよくわかっていないようだ。
「は! 何が鬼人だ! どんなに強かろうと、お前はもうズタボロじゃねえか! どのみち詰んでるんだよ!」
「そうだな。このままじゃ、何かと不便かな」
彼はふと欠けた右腕を振った。するとたちまち――新しい腕が生えてきた。目と耳も同様だった。すぐに再生し、元の体に戻った。他の小さな擦り傷なども残らず消えた。
「バ、バカな! そんなあっさり体が――」
ライは度肝を抜かれたようだった。ルカも同様だった。
「華伝……お前はいったい……」
「鬼人、なんじゃないですか? 無限に近い魂生気を持つみたいですし」
本人は平然としている。自分が伝説の存在だという自覚がまるでなさそうだ。
「ふざけんな! たかが瘴鬼のくせに、鬼人気取りかよ! とっととくたばりやがれ!」
ライは瞳を赤く強く光らせた。瞳術の光だ。だが、もはや華伝には効いていなかった。ライは舌打ちし、一瞬のうちに真横に飛ぶと、一気にこちらに迫って来た!
その突進は肉食獣の狩りを彷彿とさせる動きだったが、速さはやはりその比ではなかった。さながら弾丸のようだった。
華伝はそれを避けなかった。片手を前に出しライの拳を受け止めただけだった。その所作は、全く力を感じさせない無造作極まりないものだった。そして、にもかかわらず、彼と接触した瞬間、ライの動きはぴたりと止まった。まるで一瞬のうちに、勢いを全てそがれたようだった。
「な、んだ、これは――」
ライはおののき、とっさに退いた。すると、今度は華伝の方が動いた。地面を蹴り、ふわりと飛びあがると、ライの頭の上に乗ったのだ。そして、また飛んで、ライの背中側の地面に着地した。
「なんの真似だ、てめえ!」
ライは激昂し、即座に身をひるがえして、彼に襲いかかった。だが、ライの拳も蹴りも、華伝を一切とらえることはできなかった。傍目には明らかにライのほうが速く動いて見えた。華伝の動きはひたすらにふわふわしていて、不規則で、重量を感じさせなかった。だが、その体は、ライの拳や蹴りが当たる直前、ふっと周囲の空気に解けるようにぶれ、とらえどころがなかった。まるで風に舞う粉雪のようだった。
この戦い方は……。ルカはかつて母に聞かされた鬼人の話を思い出した。そう、人の形をした人ならざるもの、鬼の力を宿した鬼ならざるもの、それが鬼人。その戦う姿は、舞うように軽やかで、「流麗無形の悟り」と言われる――。あれが、そうなのだろうか。
「て、めえ、さっきからちょこまかと……。遊ぶのもたいがいにしろ!」
「そうだな。そろそろこの体にも慣れてきたところだ」
華伝は右手を少し上げた。見ると、その手には、いつの間にか拾ったのだろう、竜薙の風花があった。彼はそれを両手で握った。
「それは――」
ライは青ざめ、身を震わせた。
「最後に一つだけ言っておく。お前は僕のことを、所詮俺達鬼の下僕に過ぎないと罵ったけれど、それは違う。悪いが、僕をしもべにできるのは、世界でただ一人、ここにいる残月の鬼だけなんだ」
そう言うと同時に、彼は動いた。また軽やかな風のように。そして、風というものが実体を持たず、ただ流れることしかできないもののように、ライはやはり彼をとらえることはできなかった。次の瞬間、華伝はライの背中側に立っていた。そして、ライはその首と肩を斬られ、前に倒れていた。ルカの目にはやはり、華伝の動きはよく見えなかった。一回のまたたきの暗転の刹那のうちに、あの鬼の体を斬り刻んだとでもいうのだろうか。
「は……この程度の斬撃……」
ライは地面に膝をつき、すぐに体を起こそうとした。だが、直後、悲鳴を上げた。竜薙の風花に斬られた個所から、その体は崩壊を始めていたのだ。まるで砂の城が崩れるように。
「な、んだ、これは……」
「この刀は、斬った瘴鬼や鬼を、残らず散らす。まるで冬の空に散る儚い風花のように。それが、この刀の名前の由来だ」
「そん、な――」
ライの体はただちに崩れ、細かい粒になって、風に飛ばされて行った。夕日にきらきらと照らされながら。
「ルカ!」
華伝は鞘を拾って竜薙の風花を収めると、すぐに彼女のもとに駆けつけてきた。
「華伝……」
ルカは彼の顔を見た途端、張り詰めていた糸がぷつんと切れるように、体からどっと力が抜けた。よかった。彼が殺されなくて、本当によかった……。そう胸をなでおろしたとたん、その場に倒れてしまった。
「ルカ! しっかりしてください!」
自分を呼ぶ華伝の声が、ひどく遠く聞こえた。
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