4章「残月の鬼のしもべ」その5

「ルカ、大丈夫ですか?」


 華伝は彼女の体を草むらに横たえ、拘束を解き、上着のジャケットを脱いでかけると、とても心配そうに顔を覗き込んだ。その瞳はすでに黒い色に戻っている。夕日がそんな彼の横顔を照らしている。彼らが降り立ったのは少し開けた場所で、周りにはまばらに灌木が生えているほかは、岩と草ばかりだった。


「大丈夫だ。どこも悪くはないぞ」

「でも、その服――」

「ああ。服は破られたが、それだけだ。何もされてはおらん。される直前にお前が駆けつけてきたからな」

「そうですか! よかった……」


 彼はものすごくほっとしたようだった。彼女の体を力強く抱きしめた。


「か、華伝! そんなに私にくっついては……」


 ルカは目を白黒させた。確かに彼女もほっとしているし、こうやって強く抱きしめられてとても幸せなのだが、これではまた例の厄介な衝動が我慢できなくなってしまう。ついでにかなり血なまぐさいし。


「ああ、そうでしたね。つい」


 華伝もすぐに空気を読んで、彼女を手放した。なんだかちょっとわざとらしかった。だが、お互い目を見合わせると、細かいことはどうでもよくなった。二人は微笑みあった。本当に、彼が助けに来てくれてよかった。ルカは安堵の気持ちで胸がいっぱいになった。


 しかし、そのときだった。


「……何、勝手に勝利ムードに浸ってんだよ、お二人さん」


 華伝の背中の向こうから声が聞こえた。華伝ははっとしてすぐに振り返った。ルカも声のした方を見た。はたして、そこには左紋の姿があった。爆発の衝撃のせいだろう、服はぼろぼろで髪も一部焼け焦げており、満身創痍だったが、間違いはなかった。


「あの男、まだ生きて……」


 ルカは信じられない気持ちだった。あれだけ華伝にめちゃくちゃに攻撃されて、まだ死んでないなど、鬼だろうが、鬼のなりそこないだろうが、いくらなんでもありえない。


「はは。オレは鬼人だからな。死なないんだよ。鬼人ってのは無限に近い魂生気を持ってるからなァ!」

「なるほど。確かに、そういう伝説もあったな」


 華伝は極めて冷静だった。再び目を赤く光らせると、高笑いしている隙だらけのその男に殴りかかった。また恐ろしい速さと、圧倒的な膂力で。左紋はやはり華伝の動きにはまるで反応できなかった。そのままふっ飛ばされ、数メートル離れた草むらに転がった。


「に、兄さん? オレは鬼人なんだよ? 世にもまれな存在なんだよ。なんで話も聞かずに普通に攻撃して――」

「君は死なないんだろう。だったら、殺し続けるだけだ」


 華伝はさらに左紋を攻撃し続けた。今度は、腰に差した竜薙の風花を使った。その鞘を木刀のように振り、左紋の体を打ち、突いた。


「ぐああっ!」


 おそらく人間ならば一撃で絶命している攻撃を、左紋は何発もその身に受け、悶え、悲鳴を上げて、痙攣した。華伝は彼が動かなくなるまで、攻撃を続けるつもりのようだった。そして、自称無限の魂生気を持つ男は、死ぬこともなく、ひたすら打ちのめされているだけだった。


 この光景は……。ルカはふと寒気を感じた。これとよく似た景色を彼女は昔見たことがあった。そう、十一年前だ。幼い華伝は、竜薙の風花の鞘で、父親を殺した。そして今、その殺された男と同じ顔の男が、同じように華伝に竜薙の風花の鞘で打たれている……。ルカは恐る恐る華伝の瞳を見た。それはまさにあのときと同じように、ギラギラと赤く光っている。


「は、はは……わざわざそれで攻撃してくるなんて、オレへの当てつけのつもりかい、兄さん……」


 やがて、左紋は地面に膝をつき、血を吐きながら言った。


「そ、そうだよな。もしオレがそれを手にすれば、兄さんなんて、勝てる相手じゃなくなるもんなあ……」

「まだそんな寝言を言うのか、左紋」

「うるさい! それは兄さんなんかが使っていいものじゃない! オレのものなんだ!」


 もはや駄々をこねる子供のようだった。


「……だったら、僕の目の前でそれを証明してくれ」


 華伝は地面に竜薙の風花を突き刺した。そして半分ほど埋まったところで、少し退いた。


「オレにこのまま封印を解けって言うのかい?」

「ああ。君が本当に鬼人とやらなら可能なんだろう?」

「当たり前だ! オレは兄さんとは違うんだ!」


 左紋は叫び、竜薙の風花のもとへいざり寄った。そして、その柄に手をかけ、鞘から刀身を抜こうと、すなわちその封印を解こうとした。その所作に迷いは一切なかった。


 反応は即座に現れた。瞬間、竜薙の風花の鞘と柄を結ぶ紐に閃光が走り、左紋の体に流れた。彼は「ぐあああっ!」と悲鳴を上げ、柄から手をはなし、その場に倒れた。


「そ……んな……。オレを拒むだと……」


 左紋は苦悶に顔をゆがませながら、竜薙の風花を見つめた。「これでわかっただろう」華伝はため息をついた。


「君には、この刀は使えない。いや、使えないどころではなく、鬼の力を宿した君は、封印を解こうとした途端、今みたいに祓われてしまう。君は鬼人なんかじゃないんだよ」

「ぐ……」


 左紋は歯ぎしりし、華伝をにらんだ。それはかつて雷伝が幼い華伝に見せた顔によく似ていた。


 そして、追い詰められた彼は、そこで父親とまったく同じことを考えたらしかった。


「そ、そうか。この刀は、やっぱり兄さんのものだったんだね。おじい様がおっしゃってた言葉の意味がようやくわかったよ。兄さんこそが、竜薙家の当主にふさわしい。それはつまり、この刀の主にふさわしいってことなんだ!」

「瘴鬼の僕が、かい?」

「そうだよ! 瘴鬼だろうと関係ない! 兄さんなら、この刀を使える! そうに決まってるよ! そうじゃなきゃ、他に誰が使うっていうんだい? もう、オレ達以外に竜薙の家の者は生きていないんだからさ!」


 左紋の言葉は大仰でわざとらしく、表情には追い詰められた者の焦りがにじんでいた。


「だから、お願いだよ、兄さん。この場で是非、これを使うところを見せてくれよ! 兄さんなら絶対封印を解けるはずだからさ!」

「……本当に、そう思っているのかい」


 華伝は左紋を少しの間じっと見つめた。左紋の口調はひたすらに稚拙で、その言葉の裏にある真意は明らかすぎた。そう、彼は、かつての雷伝と同様に、瘴鬼である華伝に竜薙の風花の封印を解かせようとしているだけだ。華伝を殺すために。当然、そんな言葉に耳を貸すわけはない――と、ルカは思った。


 だが、華伝はまたため息をついたのち、「わかった」と言った。そして、ゆっくりとその柄に手をかけた。


「か、華伝――」


 だめだ、そんなことをしては! ルカはぎょっとした。


「は! バッカじゃねえの! こんな安い挑発にのりやがってさ!」


 左紋もそこで己の勝利を確信したらしかった。態度を急変させ、吠えた。


 しかし、直後、二人が目にしたのは、華伝が抗いの紐に祓われて死ぬ姿ではなった。抗いの紐はまったく彼に反応しなかった。それどころか、彼が柄に手をかけ刀を引き抜こうとした瞬間、ひとりでにほどけ、消えた。そう、彼はいともあっさりと、刀を抜くことに成功した。


 それは抜いた直後は錆びだらけでぼろぼろだった。だが、華伝が軽く振ると、錆びは散って消え、美しい刀身が現れた。湾れ刃にも似た、ゆったりとうねる刃紋だった。


「な、なんで……瘴鬼の兄さんが、それを――」

「さあね。自分でもよくわからない。でも、予感はあった。ずっと」

「予感?」

「これを携え、ここまで駆けつけてる間、ずっと。そして、これを握りしめて君を打っている間、ずっと。まるで竜薙の風花自身が、僕に何かを訴えているような、奇妙な鼓動を感じていた」

「う、嘘だ! それじゃまるで、竜薙の風花がオレじゃなく、兄さんを選んだみたいじゃないか! そんなのって……」


 左紋の顔は蒼白で、声音は力なくかすれていた。もはやそれは、全てに絶望した男の姿だった。


「左紋、血のつながった父子というのは、考えることも似るんだろうか。僕は十一年前、君の父親に、今の君とまったく同じことを言われたよ。彼も君と同様に、この刀の力で僕を殺そうとしたんだ。だから、僕は――これで彼を殺した」


 左紋を見つめる華伝の赤い瞳は、おそろしく冷やかな光をたたえていた。「ひいいっ!」と、華伝の眼光に、左紋は無様な悲鳴を上げ、震えた。


「に、兄さんは、それでオレを――」

「ああ。斬るしかないようだ」


 華伝は竜薙の風花を右手に持ち、ゆっくりと左紋に歩み寄る。その瞳にはもはや、殺意以外何もないように見えた。ルカはぞっとした。その光景はまさに、十一年前の再現にほかならなかった。あの日、彼は自分が自分でなくなったと言った。化け物になってしまったと言った。そして、泣いた。たくさん、傷ついていた――。


 だめだ、華伝。お前はその男を斬っては……。その瞬間、ルカは自分の役目を思い出した。


「華伝! もういい!」


 ルカは力いっぱい叫んだ。その男が、殺すしかない下種であることは、彼女もよく理解していた。けれど、華伝に斬って欲しくなかった。二人は兄弟だ。斬れば、華伝はまた傷ついてしまう……。


「あ……」


 華伝はルカが叫んだとたん、目を見開き、ぴたりと動きを止めた。


 と、同時に、左紋はその場に手をつき、土下座した。


「オ、オレが悪かった……ごめんよ、兄ちゃん……」


 震える涙声で、彼は言う。


「オレ、ほんとはただ、みんなに認めてもらいたかっただけなんだ。竜薙の風花を使えるようになって、兄ちゃんみたいに強くなりたかっただけなんだ……」

「君は殺し過ぎた。もう何を言っても無駄だ」

「わ、わかってる! オレ、本当にどうかしてた。ただ、さみしかっただけなんだ。十一年前、母さんが死んで、父さんと兄ちゃんもいなくなって、オレ、本当にさみしかった。みんなはオレを次期当主だって言ってもてはやしたけど、本心はオレのことバカにしてた。だって、オレ、兄ちゃんみたいに頭良くないし、剣術だって全然ダメだったから。くやしかった。すごくくやしかったんだよ、兄ちゃん」

「左紋、君は――」


 華伝の瞳の色が、ふと黒に戻った。


「オレ、本当はずっと兄ちゃんと一緒にいたかった。いっぱい遊びたかった。いっぱい勉強とか、剣術とか教えてほしかった。でも、兄ちゃんは十一年前、オレを置いてどっか行っちゃって……。なんでだよ。なんで黙って遠くに行っちゃったんだよ、兄ちゃん!」


 左紋は土下座したままうつむいていたが、その顔からぽたぽたと滴が下に落ちていた。華伝は黒い瞳で、そんな彼の様子をじっと見ていた。何かの感情をこらえているように、顔をしかめて。


「……左紋、君は覚えているか。母さんが亡くなった日のことを」


 やがて、彼は口を開いた。左紋は「忘れるもんか!」と即答した。


「あの日、病院のベッドの上で母さんが死んじゃっても、オレ、最初それがどういうことなのか、よくわかんなかった。そしたら、病院の廊下で兄ちゃんが言ったんだ。母さんはもう目を覚まさない、もう何も言わないって。それでオレ、そこでようやく人が死ぬってことの意味がわかって、すごく悲しくなって、泣いた。兄ちゃんの体をぽかぽか叩いて、いっぱい泣いた。兄ちゃんは最初、男がこんなところで泣くなって、オレのこと叱ったけど、少ししたら、オレと同じように泣いてて……」

「そうだな。僕はあの日、君につられて泣いてしまった。本当は、弟に涙なんて見せたくなかったのに」


 華伝の声はおだやかだった。その瞳にはもう殺意はどこにもなかった。彼は、うなだれて号泣する左紋を、じっと見つめ、ふと固く目をつぶり、顔を反らした。そして、そのまま左紋に背を向けた。


「オ、オレを見逃してくれるのか?」

「この竜薙の家に伝わる刀は、君を斬るのにはふさわしくない。それだけだ」


 華伝はそのままゆっくりとルカのほうに近づいてきた。「その代り約束しろ。もう僕達には二度と関わるな。彼女には手を出すな。そのときは絶対に許さない」彼は弟に背を向けたまま、言った。「わ、わかってる! 約束するよ、兄ちゃん!」左紋は顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた瞳でそんな彼の後ろ姿を見た。


 ルカはその光景にほっとしていた。その男は、どうせ彼が今手を汚さなくても、いずれ討伐されるだろう。そう遠くないうちに。だから、これでいいのだと思った。


 だが、そこで、本当の邪悪が姿を現し、蠢いた。


「見逃してくれてありがとよ、オニーチャン」


 その小さな男は、突如、左紋の体の中から出てきた。正確には左紋という男を模した表皮を脱ぎ捨てたかのようだった。そして、一瞬で華伝の背後に迫った!


「ぐあっ!」


 男の爪は華伝の右腕に食い込んだ。彼の右腕は衝撃で引きちぎれ、竜薙の風花を握ったまま、向こうへ飛んで行った。

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