エピローグ その1
今日もやっぱり暇だなあ……。
カフェ「アンブローシア」のカウンターの中で、西崎沙織はぼんやり思った。店には彼女以外誰もいない。ここでバイトを始めてはや三カ月目。今日はついに弓雅に一人で店番を頼まれた。不安もあったが頑張ろうと思っていた。それなのに、この閑古鳥。さすがに拍子抜けだ。カウンターに頬杖をつき、ふとガラス越しに外の景色を見た。今はもう七月で、朝の天気予報によると今日はひときわ暑い、真夏日らしい。それなのに、店に客が入ってこないのはどういうことだろう。ちょっと涼みに来てよさそうなのに。入口に人除けのお札でも貼ってあるのか。
と、沙織が訝しんだ瞬間だった。誰か店に入って来た。やった、お客さんだ。沙織はとっておきの「いらっしゃいませ」コールで出迎えた。
だが、入って来たのは彼女のよく知る人物だった。
「よう。バイトがんばってるみたいだな」
赤い髪の青年、百瀬孝太郎は陽気に声をかけてきた。今日はアロハシャツとハーフパンツという格好だ。
「なんだ、百瀬さんかあ」
拍子抜けしてしまう沙織だった。彼は、四月の事件以来、ちょくちょくこの店にやってきていた。とりあえず、お冷を出した。
「あれ、今日は西崎さん一人?」
「はい。マスターと華伝さんは今日は用事があるそうです。華伝さんのお母さんで、マスターのお姉さんの亡くなった日らしくて、一緒にお墓参りだそうですよ」
「へえ、弓雅さんはともかく、華伝のやつもそういうことするんだな」
カウンターの席に着いた孝太郎はメニューをぼんやり眺めながら言う。
「そんな言い方ないじゃないですか。お母さんなんですよ」
「いや、だって、あいつ瘴鬼――い、いや、なんでもない」
「そうですね。私も今や、そういう生き物になっちゃいましたし」
うっかり孝太郎が口を滑らせた言葉を拾い、不機嫌そうに彼を睨む沙織だった。
そう、彼女は四月のあの日、駅で竜薙左紋に化けた鬼、ライに出会い、瘴鬼にされた。ライは駅でいきなり自分の唇を噛んで血を出し、沙織に無理やりキスをしたのだ。鬼の血を飲まされた彼女は、当然、瘴鬼という化け物になって、人間としてはもう生きていけないはずだった。
だが、彼女はたまたま瘴鬼祓いの札を持っていた。それは鬼封符術師が鬼討伐の際に持ち歩くもので、万が一鬼の血を飲まされるなどしても、瘴鬼にならないようにするものだ。しかも彼女が携えていたそれは、未熟な術師が練習用に作った、とても不完全なものだった。そして、その不完全さゆえに札の存在をライに悟られることもなく、浅い瘴鬼化のまま見逃されていたのだ。瘴鬼になっている間、何か瞳術で命令されたはずだが、そのときのことはよく覚えていなかった。
やがて彼女は孝太郎達に助けられた。今は瘴鬼化の進行を止める薬と札を使っており、それで普通の人間と変わらない生活を送っている。それらを用意してくれたのは弓雅だった。沙織はきっと高価なものだろうと思ったが、弓雅は自分の身内のゴタゴタが原因だから金は気にしなくていいと言った。しかし、それではさすがに悪いような気がしたので、お礼にここで働くことにしたのだった。このままだと潰れそうな気がしたし。当然、給料は一切もらっていない。
「私、百瀬さんにはとても感謝しています。あの名刺代わりのお札がなかったら、私は大変なことになってたし。でも、華伝さんのこと悪く言うのはよくないと思います。あれから、何度か一緒にお仕事してるんでしょう」
「勘違いするなよ。俺は瘴鬼だか鬼人だかなんだかよくわからんあいつの監視役みてえなもんだ」
「監視なんてする必要あるんですか? 華伝さんは白い髪の鬼人っていうのになっても、普通に華伝さんですよ。店でそうなったら、すぐ家に帰っちゃうけど」
「まあ、あいつ、伝説の存在のくせに、今のところその力で彼女とイチャイチャしてるだけだよな……」
孝太郎はなんだかとても恨めしそうに重く息を吐いた。
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