3章「沈む心、あふれる想い」その2

 その日、日も落ちてすっかり暗くなったころ、華伝はようやく目を覚ました。額に汗がにじんでおり、何かひどく重苦しい夢を見ていたような気がしたが、思い出せなかった。というか、なぜ自分は部屋に戻ってベッドに横になっているのだろう。ぼんやりした頭のまま、ベッドの上で上体を起こした。すると、すぐ近くのカーペットの上に、赤毛の男があぐらをかいて座っているのに気づいた。彼の前にはミニちゃぶ台が広げられていて、その上には出前のピザがあった。彼はそれをもぐもぐと食べているようだ……。


「お、起きたか、イケメン」


 赤毛の男、孝太郎も、すぐに華伝に気付いた。


「なんで君が僕の部屋にいるんだ」

「お前、覚えてねえのかよ。病院で倒れたお前を、俺がここまで送ってやったんだぞ」

「そうだっけ?」


 彼の記憶はあいまいだった。そういえば、帰りの車の中で、この男と何か話をしたような気がする……。


「でも、なんでそのまま居座っているんだ。ピザまで頼んで」

「変な勘違いするなよ? お前の彼女に頼まれたんだよ。お前を見守ってろってな」

「ルカが?」


 と、そこで華伝ははっとして、壁にかけてある時計を見た。もう午後七時だ。こんなに自分は眠っていたのか。あわてて、近くに置かれた電話の子機を取り、内線でルカの部屋に電話した。


「華伝! 目を覚ましたのか、よかった……」


 ルカは彼の声を聞くや否や、とても安堵したようだった。


「ずいぶん寝ていたようだが、大丈夫か? どこも悪くはないか?」

「ええ、特に何も。ただ疲れていただけみたいです」


 実のところはまだ少しだるかったが、彼女の声を聞いたら、それも消えた。ずっと心配してくれてたんだな。こんな赤いのを見張りに使ってまで。心配をかけて悪かったなあと思う反面、彼女の気遣いがうれしかった。


「お前の彼女、三十分おきくらいに二階から電話かけてきたぞ。お前の様子はどうだって。ちょっと心配性すぎるだろ」

「そうか。悪かったな」


 にやにやしながら、赤いのに適当に謝る華伝だった。


「そうだ、華伝。ずっと寝ていたし、腹が減っているだろう。そこにいる赤毛の男が、ピザを頼んだから、お前も食え。お前の分もそこにあるはずだぞ」


 言われたとおり部屋を見回すと、確かにミニちゃぶ台の横に手つかずのピザの箱があった。これが自分のぶんか。それを取ったところで初めて、彼は自分が今、空腹であると気付いた。


「ルカはもう何か食べたんですか?」

「いや、まだだ。私のぶんのピザはここにあるのだが、お前が起きたら一緒に食べようと思って、取っておいた。お前がずっと目を覚まさなかったら、私は飢え死にしてしまうところだったぞ」

「そうですか……」


 彼女の気遣いがやはりうれしくて、胸がじんわり熱くなる華伝だった。


 それから、彼もベッドのふちに腰掛けてピザを食べた。電話をスピーカーモードにしてすぐ近くに置き、ルカと話をしながら。一緒にピザを食べながら。赤毛の男が早く帰らないかなあと思いながら。


 しかし、その男はまるで帰る気配がなかった。見ると、ピザと一緒に頼んだのだろう、ビールまで飲み始めている。


「君はいつ帰るんだ?」

「んー、今日はここに泊まりかな。飲んじゃったしな。ははは」

「なんで人の家で飲むんだ。車もバイクも運転できないじゃないか。最初から帰る気ないだろう」

「そりゃ、ホテルはチェックアウトしちまったし」

「じゃあ、野宿でもすればいいだろう」

「別にいいじゃないか。この家、空いてる部屋ぐらいあるだろ。それに、お前が寝てる間に電話かかってきてさ、弓雅さんに言われたんだよ。今はとりあえずお前と一緒に待機してろって」

「叔父さんに?」

「そうそう。あっちは今、警察と連携して逃げた弟君の行方を追ってるみたいだぜ。だから、新しい情報が入るまで俺達、待機」

「君と一緒に?」


 眉をひそめてしまう華伝だった。「だから、何かあった時に一緒に動けるだろ」孝太郎はビールをのどに流し込みながら言う。


「まあ、そういうことなら、仕方ないが……」


 弓雅の決定とはいえ、大いに納得できない華伝だった。


「というわけで、お前も一杯やれよ。今日は疲れてんだろ」


 孝太郎は華伝にビールの缶を差し出した。


「いや、僕は酒は飲まない」

「そーか。じゃあ、お前のぶん、俺がぜーんぶ飲んじゃうとしますか」


 孝太郎はしてやったりといった笑みを浮かべた。瞬間、華伝は無性にイライラしした。なぜ自分の行動でこの男が得をすることになるのか。「いや、やっぱり飲む」そう言うやいなや、その男の手からビールの缶を奪取した。そして、一気にのどに流し込んだ。


 酔いはたちまち体に回った。彼はカーペットの上にぐにゃりとへたりこんでしまった。


「華伝? まさか酒を飲んだのか?」


 電話機からルカの声が聞こえた。「ええ、少し」と、なんとか平静を装って答えるが、すでに彼はふらふらだった。


「お前、もしかして、すげえ酒弱いのか?」

「……うるさい!」


 空になったビールの缶を握りつぶし、赤いのに投げつけた。だが、それはあさっての方向に飛んで行った。そう、実際、彼はすごーく酒に弱かったのだった。


「鬼は酒に強いが、瘴鬼はそうでもないんだな。超絶ハイスペックイケメン君にも、意外な弱点があったってわけだな。ははは!」


 孝太郎はげらげらと笑う。華伝はさらにイライラした。


「そういう君はどうなんだ。弱点どころか不得手なことばかりじゃないのか。病院での、あの働きはなんだ。僕は前に言ったはずだ。君には瞳術の無効化以外、期待していないと。だが、それすらもろくに果たせなかった。何が鬼封符術師だ」

「う……」

「君はただ、無能のくせにただ言い訳が多いだけの、実にうっとうしい、僕が一番嫌いなタイプの人間だ。そういうのは女の子だとまだ可愛げがあるが、男だと最悪だ。一緒に仕事をする相手だとさらにだ。その赤い髪といい、本当は人間じゃなくてヒヒの仲間なんじゃないのか」

「お、お前……酔うとそんなに毒を吐いちゃう人なの……」


 孝太郎は華伝の的確すぎる批判に、かなりダメージを受けたようだった。ちょっと涙目になってきた。


「別に。僕はいたって普通だ」


 そうは言うものの、なぜ自分がこんなにいらだっているのか、彼もよくわからなかかった。まるで、酒のせいで、心の中に押し込めていた黒いものがあふれてきたようだった。


「ま、まあ、今日はいろいろあったし、お前も疲れてんだよな? な?」

「今日は、いろいろ……?」


 ああそうか。今日は本当に、いろいろあったから……。昼間の出来事が鮮明に蘇ってきて、なぜ自分がこうもすさんでいるのか彼は理解した。


 そうだ、あのとき、瘴鬼と変わり果てたおじい様は、耳元でこう言ったんだ。「華伝、すまない」と。なんでそんなこと、急に言うんだろう。この十一年間、僕はただ、あの人を軽蔑していたはずなのに。そう、あの人は、実の息子の父さんがあの家で何をしていたのか全く把握してなかった、愚鈍そのものだったじゃないか。


 左紋だってそうだ。よりによって、あの病院で、なんであんなことするんだ。あいつは何も覚えてないのか。僕達は十一年前、そこで一緒に母さんを失ったじゃないか。一緒に泣いたじゃないか……。


「華伝、大丈夫か?」


 と、電話機の向こうからルカの心配そうな声が聞こえてきた。彼ははっとした。


「ええ、大丈夫です」とっさに、また平静を装って答えた。


 だが、そこで孝太郎が電話機を取り、「大丈夫じゃねえみてえだし、これから気晴らしに男子会するから」と、言って、電話を切ってしまった。


「勝手に何をするんだ」

「お前さ、今自分がどんな顔してたか、わかんねえのかよ。全然大丈夫じゃねえよ」


 孝太郎はため息をつき、電話機をベッドの上に放り投げた。


「彼女に心配かけたくねえのはわかるけどさ、あんま無理して色々溜めこむなよ。飲んでる時ぐらいはさ」

「僕は別に何も溜めこんでなんか……」

「いや、絶対何か溜めこんでるだろ。さっき、お前が寝てる間にこの部屋調べたけど、エロ本とか何一つ出てきやしねえ。お前は絶対、脳内保存派だね! 頭の中にものすごく溜めこんでるタイプだね!」

「人の部屋を勝手に荒らしておいて、なんだその言い草は」


 本当に失礼なやつだ。早く帰れと猛烈に思ってしまう。


「まあ、細かいことはいいじゃねえか。今は飲めよ。もう一杯くらいはいけるだろ」

「……ふん」


 目の前に差しだされたビールの缶を、華伝はまたいらいらしながら奪い、中身を飲みほした。そして、また一段とふらふらになった。彼はカーペットの上に腰を落とし、ベッドの端に背中を預けて片膝を立てて座った。


 と、そこで孝太郎のスマートフォンが鳴った。彼はすぐに電話に出た。弓雅からのようだった。少しの間、お互いの現状報告のようなやり取りが続いたのち、やがて、彼は華伝に自分のスマートフォンを差し出した。弓雅が話があるのだという。


「華伝、どうだ調子は?」

「まあ、それなりかな」


 もはやべろべろに酔ってるのに、なおも強がってしまう華伝だった。「おいおい、なんだその酔っ払いの声は」弓雅は笑った。


「まあいい、今は酒でも飲んで休んでいろ。何も考えずにな」

「何も、考えずに?」


 ふと、その言い方が気になった。


「もしかして、叔父さんは僕を――」

「ああ、そうだ。今回の事件からは外す。お前の仕事はもう終わりだ。よくやった。店にもしばらく出なくていい。今はゆっくり休め。左紋のことは他の人間でなんとかする」

「……うん、わかった」


 華伝は通話を切り、スマートフォンを孝太郎に投げ返した。


「弓雅さん、何て?」

「役立たずの瘴鬼はクビだってさ。もう今回の事件に関わるなって」


 彼は自嘲の笑みを浮かべた。「いや、それは違うだろ」間髪をいれず、孝太郎が言った。


「今回の事件は、お前の弟が主犯だろ。だから、お前に直接仕事をさせるわけにはいかねえんだろ。私情が絡みすぎてるし」

「気を使われたってこと?」

「そうだよ。弓雅さんなりの配慮だろ。そこはありがたく受け取っておけよ。別に、お前自身が直接弟を追わなくちゃいけない理由はないだろ。鬼だろうが、鬼人だろうが、あんな無鉄砲なやつ、どうせすぐに捕まるさ」

「何だい、急に。もっともらしいことを言って。君はそれで僕をフォローしてるつもりなのか」

「え」

「僕は不完全ながらもあいつの瞳術を食らった。叔父さんはそれを見て、僕を役立たずと判断した。それだけだろう」


 華伝は酔いが回って、完全にやさぐれモードに突入していた。「いや、違うってば!」孝太郎は焦ったように声を張り上げたが、「違わない!」と、華伝はさらに大きな声を出した。


「あいつも言ってただろう。僕は所詮、人でも鬼でもない、中途半端な出来そこないだって。まったくその通りだよ。何をしても、瘴鬼は本物の鬼にはかなわない。そのくせ、普通の人間にもなれない。僕はただ、かろうじて人間のふりができている化け物にすぎないんだ」


 そうだ、いつ自分は壊れて、狂ってしまうかわからない……。一瞬のうちに目の前で瘴鬼と変わり果てた祖父の姿が、まぶたに蘇って来た。ほんの少し前までは彼は普通の人間だった。自分のよく知る人物だった。幼いころは、彼に色々なことを教わった。それが急に、あんな化け物に……。胸がきりきりと痛んだ。いつか、自分もああなるんだろうか。そう、華伝の中には幼いころからずっと、その恐怖があった。自分の中に潜む鬼の力が怖かった。


 だが、そこで、彼はルカとかわした約束を思い出した。十一年前の、あの日のことだ。彼女は血で汚れた彼を抱きしめて言った。お前は化け物ではない、と……。


 そのときの彼女のぬくもりを思い出していくうちに、彼の中の恐怖は薄らいでいった。だが、代わりに、どうしようもないくらいの渇望がわきあがってきた。あのころは、彼女のぬくもりは、抱擁は、当たり前のように身近にあった。だが、今は違う。自分が大人になって、彼女との距離はとても大きくなってしまった。ひとつ屋根の下で暮らしているのに、彼女はいつも、自分から逃げていく。


「お前はさ、よくやってると思うぜ。病院でもお前がいなかったら、俺やばかったしな」


 ぼんやり考え事をしていると、目の前の赤いのが何かまた言い始めた。いかにも気を使っているような、たどたどしい口調で。


「あんなに銃を使いこなせるやつって、人間でもそうはいないと思うぜ。つか、人間の力だけで、なんであそこまで戦えるようにしてんだよ。人外チート生物のくせに、無駄に自分を鍛えすぎだろ。あれじゃ、俺ら一般人の立場ねえよ」


 ははは、と孝太郎はぎこちなく笑う。必死に場を和ませようとしているようだ。


「……僕は強くならなくちゃいけなかったんだ」


 華伝は独り言のように言う。


「それって、つまり瘴鬼の魂生気を集めるためか? お前の彼女が生きるのに必要な」

「うん。でも、違う」

「どっちだよ!」

「僕は守らなくちゃいけないんだ。自分を、ルカから……」

「なんだそれ?」

「だって、僕が死んだら、ルカはきっとすごく悲しむ。僕が弱いせいで、彼女が悲しむ、そんなのは絶対いやだ。だから僕は、ルカに殺されないようにしなくちゃいけないんだ……」


 華伝は知っていた。彼女が衝動を抑えきれずに自分を襲ってしまった後、いつも泣いているのを。彼はそれがとても辛かった。泣かないでほしい、自分を責めないでほしい。それは、鬼の娘ならばごく当たり前の欲望なのだから。悪いのはまがいものの鬼である自分だ。どうして自分は本物の鬼じゃないんだろう。本物の鬼ならば、彼女を満たしてあげられるのに……。


 そう、瘴鬼の彼に出来ることは、自分をどこまでも強く鍛え上げることだけだった。彼は何かにつけ、彼女に言った。自分は強くなった。だから、あなたに襲われて死ぬことはない、安心してください、と。彼は少しでも彼女と一緒にいたかった。彼女との距離を縮めたかった。一緒の席で向かい合って食事をしたり、間近で彼女の笑う顔を見たかった。


 けれどやはり、臆病な彼女は彼から逃げていく。彼女の気持ちがわかるだけに、彼はとてももどかしかった。自分が瘴鬼ではなく本物の鬼であったらと、ますまず願わずにはいられなかった。


 考えてみれば、それはとても奇妙な意識の変化だった。幼いころは、彼は自らの中の鬼の力を恐れ、普通の人間でありたいと願っていた。彼女に出会ってからは、瘴鬼でよかったと思った。その力で彼女を助けることができたから。そして、その不完全さゆえに彼女と隔絶された今は、本物の鬼になりたいと思っている……。なんてみじめなんだろうと自分でも思う。まさに、人の形をした中途半端な出来そこないと言うしかない。


「ま、まあ、そんな深く考えるなよ! 人生いろいろあるけど、いいこともあるさ」


 目の前の赤いのが、また何か適当なことを言い始めた。


「お前って、生い立ちとか、彼女との関係とか、いろいろめんどくさいけど、ようするにアレだろ。ただのロリコンだろ」

「何がロリコンだ!」


 人の気も知らないで、いきなり何を言ってるのだろう、この赤いのは。華伝はかっとなり、またビールの空き缶を投げつけた。今度はきちんと標的の額に命中した。「いでっ!」孝太郎は額を押さえ、のけぞった。


「だいたい、君は人に人生を語れるほど、深い経験をしているのか? 彼女を幼いと馬鹿にできるほど、恋愛経験豊富なのか?」

「え、それはそのう……」

「さっきの発言だってそうだ。君は実に他人事のように僕の射撃を褒めていたけれど、君自身の能力が足りないということは顧みないのか? 僕は君の戦う様を後ろから見ていたけれど、まったくどうしようもないくらい、無駄の多い、隙だらけの動きだったぞ。挙句に、僕の方に燕符を投げるし。君はそれでも本当に鬼封符術師か? 本当に、真剣に鬼や瘴鬼と戦う覚悟があるのか!」


 がみがみ。くどくど。華伝は唐突に、猛烈な勢いで孝太郎に説教し始めた。言っていることは全て的確だった。孝太郎はカーペットの上に正座し、涙目になっていた。何も言い返せないようだった。


 やがて、一時間ほど言いたい放題ぶちまけたところで、華伝はようやく落ち着いた。真っ青になって死にそうな顔をしている孝太郎に背を向け、カーペットの上に寝転がった。なんだかまた眠くなってきた。


 今日は本当に、いろいろあったな……。華伝はふと、左紋との話を思い出した。あいつは狂っている。鬼人なんかじゃない、やっていることは瘴鬼と同じだ。だから、まともな人間であった頃に執着してた竜薙の風花を強く欲しているんだろう。そんなもの、もう何の意味もないのに。そう、使い手となりうる竜薙の家の者は二人の兄弟を残して死に絶え、兄弟はどちらも人ではないと来ているのだから。だから、あの刀はもう二度と、本来の力を発揮することはない……。


 だが、その刀のことをぼんやり考えた瞬間、華伝は胸のうちがざわざわするような、不思議な感覚を覚えた。なんだろう? 疲れた頭で考えを巡らせてみたが、よくわからなかった。

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