3章「沈む心、あふれる想い」その3
同じころ、竜薙左紋はまどろみの底にいた。彼は夢を見ていた。昔の、古い記憶だ。ちょうど七歳になったばかりのとある日、彼は家のすぐ近くの崖を上っていた。その上にある野いちごの実を取ろうとしていたのだ。崖の下から、兄が、危ないからすぐに降りろと声を張り上げていたが、彼は無視した。兄が取れない実を自分が取ってやるのだと意気込んでいた。
だが、所詮、彼はただの七歳児にすぎなかった。途中、足を滑らせ、崖から落ちてしまった。瞬間、恐怖で肝が冷えた。きっと、自分は地面に激突して、怪我をしてしまうだろう、あるいは死んでしまうだろう……幼いながらも、そう思えて仕方なかった。
しかし、彼の予想は現実のものにはならなかった。彼の兄が、彼が地面に激突する寸前、彼を受け止めたからだった。そして、彼はその瞬間見た。兄の瞳が赤く光っているのを。
「……兄ちゃんはショウキなの?」
幼い左紋は何の遠慮もなしに尋ねた。彼は兄と違い、非常に大事に、甘やかされて育てられていて、瘴鬼というものについて、よく知らなかった。ただ、時々目が赤く光る人間としか理解していなかった。
「うん……僕は普通の人間じゃない」
兄は気まずそうに目を反らしたが、左紋は「すごーい!」と感動するだけだった。普通の人間じゃないって、なんてかっこいいんだろう。
「いいか、左紋、このことは絶対誰にも言うなよ。絶対だぞ」
「言ったらどうなるの?」
「……兄ちゃんはもう、左紋とは遊べなくなる」
「えー」
そんなのはいやだと彼は思った。そして、即座に兄と約束した。「わかった、オレ、兄ちゃんの秘密、誰にも言わない!」そして、約束のしるしのように兄と固く手を握り合った――。
なんだこの夢は。
目を開けた瞬間、左紋はいらだちを覚えずにはいられなかった。そこはとある民家だった。彼はその居間のソファに横たわっていた。ソファの背もたれには青いモッズコートがかけられており、すぐ近くの床の上には、この家の住人である老夫婦が倒れていた。どちらも左紋に魂生気を吸われ、干からびた死体になっている。
今さら、なんでこんなことを思い出すのだろう。兄さんは、あの後すぐに、オレを置いてどこかへ行ってしまったじゃないか。何が、左紋と遊べなくなる、だ。あんな約束、何の意味もなかったじゃないか……。
それに、兄さんがいなくなった後の、あの家の連中ときたら……。思い出すと、左紋のいらだちはますます強くなった。彼は一応、甘やかされながらも、次期当主として努力していたつもりだった。それなのに、あの家の連中は何かにつけて陰口を言っていた。華伝様のほうが、当主にふさわしかったのでは、と。実際、左紋は兄と違い、剣術の才能がなく、物覚えも悪かった。頑健とも言えず、体調を崩して寝込むことも多かった。左紋自身も、そんな自分の劣っている様を自覚していた。しかし、だからこそ、兄の方が当主にふさわしかったのではという陰口は許せなかった。そして、次第に、竜薙家の当主の証である竜薙の風花という刀に執着するようになった。あの刀の封印を解き、自分がその使い手であると証明できれば、もう誰も自分を馬鹿にすることはなくなるだろう……。だが、その思惑とは裏腹に、祖父は竜薙の風花を彼に渡さなかった。遺失したのだと言う。それを彼は信じなかった。
やがて、彼は皆の前で、兄が瘴鬼であったとばらした。それは、竜薙の風花の使い手が自分をおいて他にはいないというアピールのつもりだった。
だが、左紋のその「衝撃の告白」を信じる者は一人としていないようだった。彼はますます周囲に憎悪を抱いた。この家の連中はなんて醜悪なのだろう。表向きは次期当主である自分にこびへつらっているが、内心では小馬鹿にしている。彼の竜薙の風花への執着はさらに強くなった。早くあれを手に入れて、この連中の前で使いこなし、見返してやりたい。当主として認めさせてやりたい――。
と、そこまで思い返したところで、左紋ははっと気付いた。じゃあ、なんでオレは、あの家の連中を皆殺しにしてしまったんだ? 殺してしまったら、オレのことを当主として認めるも何もないじゃないか。そう、竜薙の風花なんてもう必要ないじゃないか。
「オ、オレはいったい、何をやって――」
だが、そうつぶやいたとたん、頭の中で声が響いた。「お前はそれでいい」低い、獣の唸るような声だった。彼は瞬間、その声音に臓腑をぎゅっとわしづかみにされたような感覚に陥り、呼吸ができなくなった。
「お前は選ばれた存在だ。鬼人だ。だからこそ、お前はあの刀を手に入れる必要があるのだ……」
そ、そうだ、オレは鬼人だ。あの刀はオレにこそ、ふさわしい。
「そして、お前は倒すのだ。お前にとって最も忌まわしい存在、お前の兄を」
兄さんを? でも、オレは兄さんとの約束を破って……。
「違う。あれはお前の敵だ。お前を殴った。その痛みを思い出せ」
ああ、そうだ。兄さんのあのときの目、本当にオレを軽蔑しきってた。きっと、オレはもう、弟でもなんでもないんだ。兄さんの敵なんだ……。
と、そこで、彼はその低い声の呪縛から解き放たれ、呼吸ができるようになった。もう何も悩むことはなかった。早く竜薙の風花を手に入れ、兄を殺さなければ。ただそう考えるだけでよかった。
そうだ、こんなところにじっとしているわけにはいかない。一刻も早く兄を探し、竜薙の風花の所在を確かめなければ。彼はソファから立ち上がり、モッズコートを取り、羽織った。すると、そのポケットから何か小さなものが落ちた。携帯電話だった。いわゆるガラケーだ。
これって、あのデブでブスの女の鞄に入ってたやつだったかな。彼はぼんやり思い出した。そう、あの日、カラオケボックスで、財布が入っているであろうあのデブスの鞄をパクった時、一緒に入っていたものだ。暇つぶしに使えそうなので、なんとなく持ち歩いていた。彼は所詮、ケータイを使うことで警察その他に居場所が特定されかねないとは全く考えていない、十九歳の箱入り育ちの少年だった。
そういや、昼間の病院の件はどういうふうに報道されているだろう。彼はその電源を入れ、ニュースサイトをチェックした。どのサイトも、病院で刃物を持った男が暴れ、六人死傷と報道していた。現場から犯人と思われる若い男が逃走、とも。たったの六人って、ずいぶん控えめな報道だなあと彼はほくそ笑んだ。あの場にいた瘴鬼の数はそんなものではなかったのに。鬼殺しの名門の家の子である彼は知っていた。鬼に関する事件は、いつも、かように目立たない形でひっそりと処理される。それは、本物の鬼が、普通の人間に擬態して、政界やマスコミの上層部に食い込んでいるからだった。
ニュースサイトを一通りチェックしたところで、彼はなんとなく、葉山智子のメール履歴をチェックした。最近の女子高生は友達とどんなメールのやり取りをしているのだろう。純粋に興味があった。
そして、葉山智子の友人と思しき、西崎沙織なる人物とのメールを見て、彼はにやりと笑った。
「ふうん。世の中って意外と狭いもんなんだな」
彼はコートのポケットにガラケーをしまい、その家を出た。
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