2章「竜薙華伝」その5
だが、二階に上がってすぐの待合ロビーまで来たところで、華伝と弓雅はふと、足を止め、周りを見回した。ロビーには老若男女、たくさんの人がいる。
「いつのまにこんなことに……。おい、華伝、お前ならだいたいわかるだろ、何割ぐらいだ?」
弓雅は顔をひきつらせている。「八割……いや、もっとかな」華伝も険しい顔をしている。
「あ、あの、二人とも何を話して……」
「この異常事態がわからぬのか、百瀬のわっぱ」
伝衛門も何かに気付いているようだ。わかってないのは孝太郎だけだ。
と、そんな彼らの元に、一人の老婆が近づいてきた。「すみません、皮膚科はここでいいんでしょうか?」いかにも人のよさそうな老婆だったが、その黒い瞳は、うっすらと金色にきらめいている……。
「ああ、皮膚科なら、たぶんもっと上の階――」
「どけ、孝太郎!」
と、その瞬間、いきなり弓雅は孝太郎を横に突き飛ばした。そして、懐から銃を取り出し、老婆に発砲した。
銃弾は二発、老婆の頭部と鎖骨付近に命中した。ただちに、その体は下に崩れた。だが、すぐにゆっくりと起き上がった。瞳を赤く光らせて。
「ゆ、弓雅さん、これは――」
瘴鬼! どうみても瘴鬼! さすがに孝太郎も事態の異常さに気付いた。さらに、この場で、今の発砲に悲鳴を上げたのは一人もいなかった。そう、ここにいる人間――らしきものたちは、まったく平然としている。その瞳を、うっすらと金色にきらめかせて。
「ち! やっぱ、ただの鉛弾じゃ効果ねえか!」
弓雅は素早く予備の弾倉を懐から取り出した。だが、そこで、彼らの元に、さらに襲いかかってくる人影があった。今度は元は看護師と思われる二人だった。その瞳はすでに赤く光っており、殺意に満ちていた。
「何ぼさっとしている、孝太郎!」
彼らの爪と牙が孝太郎達の体に食い込む直前で、華伝が彼らを横から蹴り飛ばした。彼らは悲鳴のような声を上げ、床に転がった。
そして、それが、まるで一種の嚆矢にでもなったようだった。ロビーにいた、最初の老婆の発砲にまったく反応しなかった者達は、いっせいに瞳を赤く光らせ、四人の男達の方を見た。
「こいつら、全員瘴鬼? どうなってんだよ……」
孝太郎は戦慄せずにはいられない。
「ただの野良瘴鬼じゃない。彼らは瞳術によって操られている。おそらく、近くに、鬼がいるんだろう」
そう言うと、華伝は「後は頼む」と言って、近くの柱にもたれかかった。いかにもやる気なさそうに。
「え、何? お前、まさか戦わない気なの?」
「当然だ。近くに鬼がいるんだ。ここで僕が瘴鬼の力を使えば、その鬼に気付かれ、瞳術で操られてしまう。ここは、普通の人間のふりをしてやり過ごすしかない」
「ちょ、待て、理屈はわかるが――」
「孝太郎! 話は後だ!」
と、弓雅が叫ぶと同意に、孝太郎の元に瘴鬼が飛びかかって来た。「うわああ!」孝太郎は悲鳴とともに、なんとかその攻撃をかわした。そして、とっさに、ポケットから「燕符」と呼ばれる、鬼封符術師の使う札の一種をその瘴鬼に放った。それは、彼の手を離れると、半ば自動的に瘴鬼の体に飛び付いた。まるで燕のような動きだ。瘴鬼は一瞬、その燕符から迸った光にしびれたように、動きを止めた。そして、そこを弓雅が銃で撃った。今度の銃弾は「鬼封弾」という特殊なものだった。それを胸に二発浴びた瘴鬼は、たちまち手足を弛緩させ、その場に倒れた。
「ま、まずは一体……」
孝太郎は額の汗をぬぐい、すぐにポケットから「鬼封拳符」を仕込んだグローブを取り出し、両手に装着した。燕符は遠距離からの攻撃が可能で、瘴鬼の素早い動きをある程度追尾することも可能だが、威力は極めて低い。一瞬動きを止めるほどしかない。とどめをさすためには、他に何らかの手段が必要だ。彼の場合は、威力の高い鬼封拳符を直接ぶつけて瘴鬼を殴り倒すスタイルだった。
「よし! 行くぜ!」
グローブをはめた両手をパンと叩き合わせ、気合を入れて、迫りくる瘴鬼達に挑む! まずは燕符で足止めして、鬼封拳符で直接攻撃! これで一体ずつ確実に倒すことができるはず!
だが……、
「ぎゃあああっ!」
多勢に無勢と言う言葉がある。さすがに相手の数が多すぎた。すぐに彼は、瘴鬼を華麗に倒すどころではなく、ひたすら数の暴力から逃げまどうだけになった。
「おい、少しは仕事しろ!」
弓雅はそんな孝太郎に叱咤しながら、援護射撃する。だが、後方にいる彼もまたいっぱいいっぱいだった。燕符で足止めすれば、彼の射撃は確実に命中するのだが、さっきから孝太郎が防戦一方になって、燕符を放つどころではなくなっているせいだった。
と、そこで、瘴鬼の一体が、ふいに動きのパターンを変えた。それまでは回避能力だけは妙に高い手前の赤いのを狙っていたが、急に後ろの弓雅に狙いを定め、襲いかかって来たのだ。
弓雅はとっさに後ろに下がりながら、その瘴鬼に向かって発砲した。だが、瘴鬼の踏み込みの速さは、彼の予想を上回っていた。鬼封弾は外れ、瘴鬼は弓雅の右肩に牙を立てた。
「ぐ……」
彼は苦悶に顔をゆがませ、うめいた。その手から銃が落ちた。瘴鬼は瞳を赤く光らせ、さらに牙を、爪を、彼のスーツに食い込ませていく――が、そこで、突然、横から植木鉢が飛んできた。それは瘴鬼の頭に命中し、その勢いにふっ飛ばされた瘴鬼は弓雅の体から離れた。
「た、助かったぜ、華伝」
弓雅は額に汗をにじませながら、自分の方にゆっくりと近づいてくる甥を見た。
「手は動く、叔父さん?」
「ダメだな、もう撃てねえ」
「わかった、後は僕がやるよ」
彼は弓雅の銃を拾った。「ああ、くれぐれも人間らしくな」弓雅は左手で懐から予備の弾倉を出し、彼に投げ渡した。
こいつ、銃なんて使えるのか? まさか、俺に当てたりしないだろうな? その様子をちらりと見て、孝太郎はふと不安を抱いた。だが、それは杞憂だった。華伝は両手でグリップを握りしめると、即座に孝太郎のすぐ近くの瘴鬼に向かって発砲した。その所作は手慣れており、無駄がなく、かつ狙いは正確だった。瘴鬼は額を撃ち抜かれ、のけぞって動きを止めた。
「孝太郎、早くとどめをさせ!」
まるでプロの軍人のようなその射撃に、一瞬、呆気に取られていると、罵声のようなものが飛んできた。孝太郎は慌てて、華伝が撃った瘴鬼に鬼封拳符パンチを浴びせ、絶命させた。
「鬼封弾は通常、一体につき二発、胴体に撃ちこむ。だが、今は瘴鬼の数に対して、弾の数が少ない。だから、一体につき一発、頭に撃ちこんで、動きを止めるのを最優先にする。君はその後の処理に専念してくれ」
「え、いきなりヘッドショット狙いなのかよ? 当たるのかよ?」
「当てる。どこだろうとね」
その言葉は真実だった。彼の射撃は精密で、タイミングも極めて適切だった。決して鈍重ではない動きの生物の頭部に、次々と弾丸を命中させていく。おかげで、孝太郎はとても戦いやすくなった。心強い援護射撃だった。だが、なぜこの瘴鬼の男は、こうも卓越した射撃技術を持っているのだろうと疑問に思えてしょうがなかった。彼の実家の竜薙家で代々受け継がれてるのは古武術だった気がするのだが?
「弓雅、あれはお前が仕込んだのか?」
伝衛門も感心した様子で弓雅に尋ねるが、弓雅は「俺じゃねえです」と、出血する肩を手で押さえながら首を振った。
「竜薙の家を出て、しばらくして、あいつが俺に言ったんですよ。自分はもっと強くならなくちゃいけないって。何か思いつめた顔でね。だから、俺はツテで元傭兵の男を海外から呼んで、あいつに色々教えさせたんですよ。実戦で使う、あらゆる武器、弾薬の使い方をね。すると、約一年でその元傭兵の男は、もう教えることがなくなったって言って、国に帰っちまいやがった。ハハ……」
「まさか、一年でその男が持てる全ての技能を習得したのか」
「ええ。その後も人を呼びましたけどね。あいつは今や、銃どころか、ナイフから対物ライフルまで余裕で使いこなしちまうでしょう」
何だその物騒な経歴……。孝太郎は戦慄せずにはいられなかった。
「ちなみに、あいつは最近、パイ生地作りに凝ってるらしいですぜ」
「ほう。さすが華伝、器用なものだな」
器用にもほどがある! つか、何そのいらない情報! 今ここで言うことじゃないし! じじいも何、感心してるの! あんた本当はただの孫バカだろ! 孝太郎の頭の中にツッコミの言葉が次々と沸き上がってくる。さすがにこの超忙しい状況で、声に出すことはできないが。
と、そこで、そんな話をしているおっさんと老人のところに、二体の瘴鬼が近づいてきた。あぶない! 孝太郎はとっさに燕符をその二体に放った――が、手が滑って、一枚はあさっての方向に飛んでしまった。その先には華伝がいた。
やべえ、あいつも瘴鬼だ、このままだと当たっちまう! 孝太郎は焦った。だが、彼の予想とは裏腹に、燕符は華伝のすぐそばを通り抜けて行った。華伝はその間に、孝太郎が燕符を当て損ねた一体の頭を撃ち、動きを止めた。
「あ、あれ?」
反射的に、動きの止まった二体に鬼封拳符パンチでとどめを刺しながら、孝太郎は不思議に思った。なぜ、燕符は彼に当たらなかったのだろう。
まさか、こいつ、極限まで瘴鬼の力を押さえこんでいるのか? 燕符に感知されないほどに? 一応は、鬼封符術師である孝太郎には信じられない気持ちだった。そんな瘴鬼、初めて見た。しかも、それはつまり彼は今、純粋に人間の力だけで戦っているということで、頭のどこかで、きっと瘴鬼の力でチートして弾丸を当ててるんだろうと思っていた孝太郎には驚きだった。
しかし、直後、孝太郎はまた華伝に驚かされることになった。華伝はいきなり孝太郎に近づいてきて、その白いライダージャケットのポケットに左手を突っ込み、勝手に燕符を何枚か取り出した。そして、それを複数同時に瘴鬼の群れに投げ放ち、燕符が当たって動きを止めた瘴鬼から、次々と、右手の銃で撃って行った。
まさか瘴鬼のくせに燕符まで使いこなすのかよ、こいつは……。華伝の連続攻撃は相変わらず素早く、的確で、一切の無駄がなかった。その光景は、孝太郎にはまるで何かのアトラクションを攻略しているように見えた。孝太郎の仕事はおそろしく簡単で、彼の銃弾で倒れた瘴鬼に、何も考えずにとどめを刺していくだけでよかった。やがて、その場で動く瘴鬼は一体もいなくなった。あたりは、その屍が散乱している。血のにおいもいっぱいに充満している。
「お前、燕符に触れて何ともないのかよ」
「平気じゃない。ぴりぴりする」
彼は左手を掲げた。その指先は赤くなっている。一応、ダメージはあったようだ。一応……。
「つか、こんなにやれるんなら、最初からお前が戦えよ」
「言っただろう。おそらく、この様子をどこかから鬼が見ている。だから目立つ真似はしたくなかった。それに、鬼封符術師が一人いればなんとかなると思ったんだ。見込み違いだったけど」
「うっせーな! 勘違いすんなよ! 今日の俺はちょっと本調子じゃなかっただけだ」
また自分の力不足を棚に上げて吠えてしまう孝太郎だった。
と、そのときだった。ロビーの奥からコツコツとこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
「人間風情と瘴鬼風情が、なかなかやるじゃないか。もっと時間がかかると思ったんだけどね」
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