1章「瘴鬼と残月」その7
それから約十五分後、彼は家に帰って来た。彼女に言われた物をコンビニで買ってきて。
「本当に、これでなんとかなるんですか?」
華伝はルカの部屋の前で、それを袋から出して掲げた。ガムテープだった。部屋の中から「なる、はず」とややあいまいな返事が帰ってきた。そして、部屋に入って来い、とも。彼が嫌な予感を覚えつつ扉を開けると、部屋の中には、ベッドのわきにへたりこんでいるルカの姿があった。さっきまでパジャマを着ていたようだが、何か思惑があるのだろうか、今は上を脱いでタンクトップだけになっている。ブラはしていないようで、その薄い布地が、控えめなふくらみの乳房を、その形が少しわかる程度にふんわり包んでいる。
「いいか、私はこれからそれを使う」
「使うってまさか……」
「ああ。それで私を縛れ」
得意げに言うルカだったが、さすがに引いてしまう華伝だった。
「いや、僕にそういう趣味はない――」
「お前の趣味の話など、今は関係ない。だいたい、お前は服選びからして、趣味がおかしいではないか。毎日黒いのばかり着ている。お前は見た目が悪くはないのだから、もっとこう……」
「僕の服の趣味の話はもっと関係ないですよ!」
「いいから、ここは私の言うとおりにしろ」
ルカは彼に背中を向け、両手首をそろえて差し出した。もう観念するしかないようだ。「じゃあ、遠慮なく」とだけ言うと、彼はガムテープをその手首に巻き付けた。ぐるぐる。さらに腕にも巻きつける。ぐるぐる。
「巻き終えるまでに、いつもの噛みつき癖を起こさないでくださいね」
「わ、わかっている……」
そうは言うが、彼女は時折、彼に触れられて恥ずかしそうに手足をもぞもぞさせていた。普段、お互いに接触しないようにしている分、スキンシップに耐性がないようだった。
やがて、彼はなんとか無事にルカの体を緊縛し終えた。その姿には一抹の罪悪感を覚えた。そして、最後に、鬼除けの札を張り付けているシャツを脱いだ。下には何も着ていなかったので、上半身裸だ。ルカは振り返り、ちらっとその姿を見て、顔を真っ赤にして目を反らした。
「じゃあ、このまま口に吹き込むので、じっとしていてください」
と、後ろから肩を押さえた途端、彼女は「わ」と声を上げ、体をびくっと震わせて、彼の腕から逃げた。
「う、後ろからとは聞いていないぞ!」
「前からだとむずかしいんです」
「何がだ」
「……色々、ですよ」
つまり、前からだとお互いの胸と胸が重なるわけで、自分は裸で彼女はブラをしてないわけで、それは男として非常にやっかいなことになる……とは、彼は口が裂けても言えなかった。
「いいから、じっとしていてください。僕はいつもやってることなんですし、すぐ終わります」
華伝は何だか、治療を怖がっている子供をなだめている歯医者のような気持ちになって来た。
「とりあえず、目を閉じて心を空っぽにしてください」
「心を空に……無我の境地か……」
ルカは目を閉じ、何か集中するように眉根を寄せた。そして、ややあって、「ちっとも空にならないぞ」と、困り顔になった。いや、違う、そうじゃない。悟らなくていいから。単にリラックスすればいいだけだから。
「じゃあ、今から考えてみてください。ブルーベリーのミルフィーユとレアチーズケーキ、どっちがいいか」
「なんだそれは」
「今度どっちか作ろうと思っているんです。でもどっちにすればいいか、迷っていて。あなたの頭の中で最終選考してください」
「なるほど。どちらも美味しそうだな……」
ルカは再び目を閉じた。今度は大丈夫だろうか。華伝は背後からそっと彼女の肩をつかんだ。彼女はまた一瞬体を震わせたが、今度は逃げなかった。かなり身をこわばらせていたが。
華伝はそのまま前に手を回し、彼女の顎をつまんで自分の顔のほうに向けた。よく見慣れた可憐な顔が、今は目を閉じて、緊張でまぶたを痙攣させていた。彼はその長い髪を耳の横に流し、軽く頬を撫でてから、口づけした。
「あ……」
唇が重なった瞬間、ルカは小さく声を出した。そこから漏れる吐息が熱を帯びたように感じられた。そして、その熱っぽさが増していくのに反比例して彼女の体の緊張は解けて行った。彼は慎重に、努めていつも通りに、彼女の口に瘴鬼の魂生気を注いだ。自分の吐息もまた、いつもよりずっと熱くなっているのに気付かないふりをしながら。
やがてふと、彼女は彼から離れた。そしてすぐに、自分の方から濡れた唇を重ねてきた。貪るような勢いだった。
「ルカ――」
彼はとっさに危険を感じたが、そのときにはすでに、彼の口の中には彼女の舌が入っていた。その動きは貪婪で、激しかった。彼は次第に意識を舌ごと絡め取られそうな気持ちになって来た。お互いの口の端から滴がこぼれた。
だが、そこで鬼の娘は本性をあらわにした。彼女は一瞬のうちにガムテープの厳重な緊縛を破り、華伝の首元を両腕でつかんだ。まさに鬼のような、強い力だった。その瞳は赤く光っていた。
「ぐ……」
華伝は必死に彼女を押さえ、噛みつかれるのを防いだ。人間の力では無理だった。瘴鬼の腕力を使った。二人の力は少しのあいだ拮抗していたが、やがて、彼は彼女の手首をつかんだままあおむけに押し倒した。
カーペットの上に強く体を打ちつけても、ルカの瞳は赤く、力は弱まることはなかった。「ルカ、落ちついてください!」呼びかけたが、反応はなかった。そこで彼はとっさに、無防備な彼女の耳を舐めた。たちまち「わああっ!」と彼女は驚きの声を上げ、身を大きく震わせた。その瞳の色も、元の紺色に戻った。
「か、でん……そうか、私は、また……」
我に返ったのだろう、ルカはとたんに涙ぐみ始めた。「いいんです。気にしないでください」彼はやさしく微笑みかけた。
「もう少しで全部終わります。このまま続けていいですか?」
「ああ。このまま手を押さえておいてくれ……」
ルカは潤んだ瞳を閉じた。目じりから涙が流れ落ちた。華伝は再び彼女に口づけした。できるだけそっと、おだやかに。彼女の中の人食いの鬼を刺激しないように。
やがて、そのまま無事に彼は瘴鬼の魂生気を全てルカに与え終えた。彼はすぐに顔を上げ、彼女から離れた。彼女もすぐに目を開けた。その瞳にはまだ涙がたまっていて、きらきら光っていた。それはとても綺麗だった。彼は再び彼女にキスした。彼女が油断しているほんの一瞬の隙に。
「華伝……どうして……?」
ルカはきょとんとして、自分の唇を指でなぞった。
「理由なんてないです。ただ、僕がそうしたいから、しただけです」
「そうか。お前は昔からそういうやつだったな……」
ルカは彼を見つめ、うれしそうに微笑んだ。そして、そのまま目を閉じ、意識を失ってしまった。一瞬とはいえ、残月なのに鬼の力を使ったので、ひどく消耗したのだろう。華伝は彼女にパジャマの上着を着せ、懐にかかえてベッドに運んだ。
昔、僕が言ったことを、ちゃんと覚えていてくれたんだな。その美しい寝顔をじっと見つめながら、彼は十一年前のことを思い出していた。あの日、竜薙の家の近くの山の、古い炭焼き小屋で、彼は初めて彼女に口づけした。瘴鬼の魂生気を口移しで渡すために。
そして、魂生気を渡し終えた後、幼い彼は再び彼女にキスした。彼女はびっくりしていたが、彼はただ「僕がそうしたいから、しただけです」としか言えなかった。それ以上、自分の中の感情をうまく言葉に出来なかった。
あのときから、彼の中の彼女への想いはずっと変わっていない。そして、彼女の姿もまったく変わっていない。鬼は普通、成人するまでは人と同じ速度で成長するが、彼女は十四歳で残月の呪いにかかり、以後、肉体の変化が止まってしまっているのだった。
そう、あれから十一年、彼だけが成長し、大人になった。そして、彼女はいつしか彼を異性として意識するようになり、子供の頃のように彼女と触れ合うことができなくなった。それは彼にとってはとても辛いことだった。だが、彼女への想いは逆にずっと強まった。たとえ直接触れ合えなくても、いつまでも一緒に生きて行きたいと思った。
彼にとって一番怖いことは、彼女がこの世から消えてしまうことだった。そして、その別れはいつ訪れてもおかしくなかった。彼の知る限り、残月の呪いにかかった鬼は、多くは半年ほどで弱って死んでしまう。瘴鬼の魂生気で延命しても、普通はそう長くはもたない。瘴鬼の魂生気は、所詮、人間のそれの代替品にすぎないのだから。
実際、ルカは体が弱かった。体力はなく、風邪のような症状を出して寝込むことが多かった。そんなとき、彼はとても不安になった。彼女の死を想像しただけで、心が壊れてしまいそうだった。
そう、彼は知っていた。自分もしょせん、瘴鬼という一匹の化け物に過ぎないということを。そして、彼女を失った時、自分もまた、今まで狩って来た多くの化け物たちと同じ姿になるということを……。
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