1章「瘴鬼と残月」 その5
「智子! 私よ! いたら返事して!」
お社に続く石段を登りきり、境内まで上がると、沙織はすぐに周りを見回しながら、声を張り上げた。鳥居の脇に小さな街灯があるほかは、灯りは何もなく、お社の裏手の林のほうは真っ暗だ。
そう、ここは彼女の自宅からすぐ近くにある、小さな無人のお社だった。先ほど、彼女のスマートフォンに急に智子から電話がかかって来たのだ。今から直接会って話がしたいと、昔よく一緒に遊んだ場所で待っていると。あんな事件の後で、沙織は大いに迷ったが、きっと自分だけに相談したいことがあるのだろうと思い、パジャマの上にカーディガンを一枚羽織っただけの格好で駆けつけたわけだった。何より智子のことが心配だった。
「智子! どこなの!」
返事はなかった。だが、人の気配は確かに感じられた。林の方からだ。沙織は再び「智子!」と叫びながら、そっちに向かった。すると、次第に、ざりざりという、腐葉土を掘るような音が聞こえてきた。
「智子、そこにいるの――」
と、音のする方に駆け寄ったところで、沙織ははっと息を飲んだ。月の光の下、地面にうずくまって、うごめいているのは智子だった。その着ているパジャマは血のような黒いしみがべったりついている。さらに、彼女は腐葉土を手ですくっては口に運んでいるようだ……。
「と、智子! 何やってるの!」
「何って、食べてるに決まってるじゃない……チョコレート」
智子は顔を上げ、沙織を見た。その目は赤く光っていた。
「チョコレート? 何言ってるの、それはただの土でしょう!」
「そう。でも、チョコレートなの。昔、沙織が言ってたじゃない、空の雲は綿菓子みたいって、地面の土はチョコレートみたいって。お菓子みたいでおいしそうって――」
「そんなの、子供の頃の話でしょう! いますぐやめて、そんなこと!」
沙織は智子に駆け寄った。だが、その瞬間、智子は飛びあがり、そばの樹の枝に脚を引っ掛け、逆さ吊りになった。それはまるで猿のような動きだった。
「どうして? おいしそうって言ってたの沙織なのに……」
智子は逆さまのまま、口を大きく開けた。よだれがダラダラと下に落ちた。その目はギラギラと赤く光っている。沙織は恐怖で体が震えた。
「あ……よく見たら、沙織って美味しそう。お父さん達と違って」
「え――」
「食べちゃってもいいよね。だって、私達、友達だもん」
智子は顔を歪ませ、にやりと笑った。そして、枝にぶら下がったまま体を大きくしならせ、いったん枝の上に乗ると、そのまま沙織に飛びかかって来た!
「きゃあっ!」
沙織はもはや悲鳴を上げることしかできなかった。
だが、その瞬間だった。沙織の前に長身の男が躍り出てきた。そして、迫りくる智子の体を片腕で受け止め、もう片方の手で殴り返した!
智子は獣のような声をあげると、近くの茂みの中に吹っ飛んだ。
「沙織ちゃん、早く下がって!」
そう目の前で叫ぶ男は、沙織のよく知る人物――華伝だった。
「か、華伝さん、どうしてここに……」
「詳しい話は後だ」
と、華伝が言ったとき、茂みの中から、智子が――いや、智子のような化け物がが這い出てきた。かろうじて人の形をとどめているが、肌は赤黒く変色し、口は横に大きく裂けてよだれをしたたらせ、赤い瞳はカメレオンのように左右で異なる動きをしている。
「なに、あれ……?」
沙織は息を飲んだ。「あれはもう君の友達じゃない」華伝はきっぱりと言った。
「あれは瘴鬼だ。ただの――化け物だよ」
瞬間、華伝の瞳が赤く光った。彼はそのまま前に飛びだし、智子、いや、瘴鬼に襲いかかった。
だが、その手が瘴鬼の喉笛を捕える直前で、瘴鬼は後ろにのけぞり、さらに、上に高く跳躍した。そして、猿のような動きで木々の枝の間を飛び移ったのち、突如、華伝めがけて真上から落ちてきた!
「か、華伝さん!」
直後、沙織が見たのは、瘴鬼に後ろから羽交い締めにされている華伝の姿だった。
「あんたって、イケメンね。食べたら美味しい?」
瘴鬼は華伝の肩越しに顔を近づけ、舌なめずりをした。よほど強い力で拘束しているのだろう、その血管の浮いた腕からぎりぎりと音が鳴っている。だが、華伝の顔色は少しも変わらない。
「悪いね、それはこっちの台詞なんだ」
彼はふと、赤い瞳を細めて冷やかに笑った。そして、無造作に、実にさりげなく片手を動かし、瘴鬼の頭をわしづかみにした。直後、そこからめりめりと骨の砕ける鈍い音が響いた。瘴鬼はうめき声を上げ、腕の力を弱めた。すると、華伝は瘴鬼の頭をつかんだまま、その体を目の前の大きな樹に叩きつけた。片手だけの力で、激しく。
「グアア……」
衝撃で樹は折れて向こうに倒れ、瘴鬼もまた、体中の骨を砕かれたようだった。耳や鼻や目から血を垂れ流しながら、ぐにゃりと地面に崩れ落ちた。その四肢は生け造りの魚のようにぴくぴくと痙攣している。
沙織はその一連の光景に戦慄せずにはいられなかった。さっきまで自分が智子と呼んでいた者は、今は化け物となって、さらに瀕死の状態にある。そして、その化け物をそうしたのは、目の前にいる青年だ。彼は彼女のよく知っている人物のようで、そうではなかった。さっきから、まるで人間とは思えない力を発揮している。
「あ、あの、華伝さんはいったい――」
「僕も瘴鬼だ。これと同じ、化け物だよ」
華伝は沙織に振り返り、言った。その目はやはり赤く光っている。
「ショウキって?」
「そうだな……鬼の力に触れて、化け物になった人間ってところかな」
「鬼?」
「ああ。この世には、人にまぎれて、人を食らう、鬼という生き物がいるんだ」
そんなの、伝説上の生物だと思っていたのに。沙織はぎょっとした。
「鬼は人によく似た種族だ。そして、人を食う。それは、鬼が生きるためだ。人が他の動物や植物を食べて生きながらえるのと同じだ。いわば、人類の天敵と言っていい。だが、人の総数に比べて、鬼の数は圧倒的に少なく、生きるための捕食も目立たず行うのが一般的だ。だから、その被害は多くの人に気付かれない。だが、瘴鬼は違う。彼らは放縦に人間を弄び、汚し、殺す」
華伝は目の前の瀕死の瘴鬼をじっと見つめながら、言う。
「いったん瘴鬼となった者は、人間であった時の執着や劣等感に駆られ、狂う。そして、殺戮や破壊を繰り返すようになる。彼女もまた、その一人だろう。もはや、人間に戻ることはない」
瘴鬼となった智子は、もう人間に戻ることはない……。それは沙織には辛すぎる言葉だった。だが、同時にそれが嘘ではないと彼女は直感で理解した。彼の言うとおり、智子は人間であった頃の執着、すなわち食欲を暴走させていた。そして、それで両親を殺した。パジャマについた血がその証だ。さらに、人ならざる姿と動きで沙織や華伝を襲った。もはや彼の言うとおり、化け物になってしまったと言うほかない。
「人が瘴鬼になるにはいくつかパターンがある。一つは、鬼に魂生気を吸われ、本来ならばそこで死ぬはずだった者が、生き延びたケース。一つは、何らかの形で鬼の血液を体に取り込んだケース。あるいは、鬼の強い力が宿った何らかの物に触れた人間が、時間差で瘴鬼になるケースもある。……彼女について何か心当たりはあるかい?」
「え……いや、あの……」
いきなり質問されても、ショックで頭がうまく回らない沙織だった。
「そうか。なら、いいんだ。原因はいずれ僕達のほうで調べるから」
華伝はやはり振り返らずに言うと、かつて智子であった瘴鬼に近づいた。ああ、そうか、これから華伝さんは、智子にとどめをさすんだ……。沙織は悟った。
「もしかして、華伝さんは、そういう化け物になった人達を倒すお仕事をしているんですか?」
「まあ、そういうことだね」
「そう、ですか……。しょうがないですよね。これ以上被害者を出さないためにも」
自分に言い聞かせるようにつぶやく沙織だった。理屈は分かっていても、智子のことはやはり胸が痛んだ。
「言っておくが、僕は彼らが人間をどれだけ殺そうと、興味はない。人間のために彼らを狩っているわけじゃない」
「え……じゃあ、お金のためとかですか?」
「それも違う。僕はただ、彼らの命をかすめ取っているだけさ」
その言葉の意味は、すぐに沙織も理解することになった。華伝は瘴鬼の前でしゃがみこむと、その首筋に噛みついた。たちまち、瘴鬼の体は激しく痙攣し始め、ミイラのように干からびて行った。華伝の口元からは、何かほの青い光がうっすらと漏れているように見えた。
「命を、食べている……?」
と、沙織が思わずつぶやいたとき、「ま、そんなところだろうな」と、すぐ横で声がした。はっとして振り向くと、白いライダージャケットを着た男が立っていた。この服、どこかで見たことあるような……?
「俺も詳しくは知らねえんだが、あいつは一緒に暮らしている鬼のために、ああして、瘴鬼の魂生気を集めてるらしいぜ」
「一緒に暮らしている……」
沙織ははっとした。そうだ、確か彼は、病弱な恋人と一緒に暮らしているという話だった。それがきっと、今男が言った鬼のことなのだろう。
「あの、あなたはいったい……?」
「ああ、俺はあいつの仲間だよ。正確にはあいつは俺の助手ってところかな」
「華伝さん、助手なんですか」
それにしては、華伝が何もかも全部一人でやってしまったようだったが。
「誰が君の助手だ、孝太郎」
華伝も仕事を終えたのだろう、口元を指でぬぐいながら、こっちに振り返った。その足元には完全に干からびた瘴鬼の死体が転がっている。かつて、沙織が智子と呼んでいた者のなれのはてだ……。
「やけに来るのが遅かったじゃないか。どこで寄り道してたんだ」
「か、勘違いするなよ! 俺は別に暗くてお前の姿を見失ったとかじゃねえんだからな!」
「見失っていたのか。また、随分と頼りにならない鬼封符術師様だな」
「うっせーな! お前が土地勘のない俺を置いて、人外脚力で先に行っちまうのが悪いんだろうがよ! だいたい服だって黒いし、夜だとよく見えねえだろうが!」
孝太郎と呼ばれた赤い髪の青年はむっとしたように腕を組み、華伝をにらんだ。
と、そこで、沙織のカーディガンのポケットに入れておいたスマートフォンが鳴った。彼女の父からだった。智子から電話がかかって来た後、ちょっとコンビニに行くと言って、あわてて家を飛び出してきたものの、彼女の帰りが少し遅いので心配して電話して来たらしかった。最近物騒な事件が続いているせいもあるだろう。沙織はただちに電話に出て、いますぐ帰ると父に伝えた。鬼や瘴鬼や、智子のことは言えなかった。言っても信じてもらえそうにはないし……。
だが、スマートフォンのタッチパネルを操作して電話を切った瞬間、ふと思い出した。智子が化け物になる直前、新しい彼氏ができたと、自慢していたことを。もしかすると、今回の事件と何か関係があるかもしれない。
「あの、華伝さん、これを見てください」
沙織は智子から最後にもらったメールを開き、その添付画像を華伝達に見せた。カラオケボックスで、チャラチャラした男と智子がツーショットで撮ったらしい写真だ。
「この人、智子が最近付き合ってた人みたいなんですけど――」
「彼が?」
華伝はその男の顔を見るや否や、驚いたように目を見開いた。
「もしかして、華伝さんの知ってる人なんですか?」
「ああ。雰囲気は子供のころとだいぶ変わっているが、間違いない。彼は
「え……」
沙織も驚いた。まさか、彼の身内だったとは。それにしてはあまり似てないような気がするが。孝太郎も「お前、弟いたのかよ!」と驚きの声を上げた。
「だが、妙だな。左紋は今から一カ月ほど前に死んでいるはずなんだ」
華伝は眉根を寄せて、写真をじっと見つめた。そして、ふと「彼の写真、他にないかい?」と沙織に尋ねた。
「できれば、このバンダナを外している写真が見たいんだけど」
「すみません。これ一枚しかなくて」
「そうか……」
彼は顎を指でつまみ、何か思案しているようだった。バンダナって、何でそこにこだわるんだろう? 沙織は不思議に思った。
「そもそも、お前の弟ってなんで死んだんだよ」
「鬼の討伐に参加して、逆に鬼に食い殺された、ということになっている、はず……」
「死因は鬼がらみか」
一見あまり頭のよくなさそうな孝太郎も、何か考え込んだようだった。
「まあ、ここで考えてもらちが明かない。今回の件は僕が報告しておくから、孝太郎、君は沙織ちゃんを家まで送ってくれ」
「俺一人で? お前はどうするんだよ」
「帰る」
華伝はそれだけ言うと、すたすたと夜の闇の向こうに去って行った。
沙織は少しの間、彼の去って行ったほうの何もない暗がりを見つめていた。そして、ふと、目の前の干からびた死体の前にしゃがみこんだ。智子はもう死んだ。もう二度と、笑わない、しゃべらない。やはりとても悲しかった。「あんたの友達は気の毒だったな」と、孝太郎もそんな彼女に同情の言葉を投げかけた。
「でも、華伝さんはどうして智子みたいになってないんでしょう。自分のこと、同じ化け物だって言っていたのに」
「さあ? 人間として暮らしていくのが性に合ってるんじゃないか?」
孝太郎はさも適当に答えた。
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