1章「瘴鬼と残月」 その3

 さて、それから五日後。西崎沙織は、自らが通う朱鷺浜高校の職員室で、担任の教師にプリントの束を渡されていた。


「葉山さん、本当に大丈夫かしらね」


 担任の中年の女教師は心配そうに呟いた。沙織が教師から渡された紙の束の中には採点済みの小テストの答案もあった。そこに記されている名前は、葉山智子。そう、沙織の一番の友達のものだった。


 そして、彼女はここ四日、全く学校に来ていない。体調が悪いと家族から学校に連絡があったそうだが、それにしても休みすぎだった。担任教師以上に、沙織もまた、心配だった。


「一応、家に電話はしてみたんですけど、まだ本人は出られないみたいで」


 沙織はプリントを鞄にしまいながら、教師に言う。


「家族の人はなんて?」

「風邪をこじらせたみたいだって言ってました」

「そう……。ただの風邪ならいいんだけど」


 沙織は教師に軽くおじぎをすると、職員室を後にした。そして、そのまま校門を出て、智子の家に向かった。時刻は午後四時過ぎ。まだ外は明るかった。


 智子が住んでいるのは学校から歩いて二十分ほどのところにあるマンションだった。比較的古めの建物で、オートロックなどはなく、沙織はすぐに葉山一家の住む402号室にたどりついた。


 だが、扉の前に立ったところで、中から不穏な物音が聞こえてきた。何かが壁にぶつかったような音、そして、智子の母親らしき女の「もうないって言ってるでしょ!」という怒鳴り声だ。


 いったい何があったんだろう。沙織はたちまち不安になった。すぐにインターフォンを鳴らし、「朱鷺浜高校、二年二組の西崎沙織です。智子さんの休んでいる間のプリントを持ってきました」と大きな声で中に呼びかけた。


 すると、ややあって、扉は開いた。出てきたのは智子の父親だった。智子とよく似た細い目をした、小太りの中年男だ。沙織も前に何度か会ったことがあったが、その時とは違って、今は顔色が悪く、やつれているように見えた。着ているポロシャツもなんだかよれよれだ。


「あの、智子さん、ずっと学校休んでますけど、大丈夫ですか?」

「ああ……ちょっと具合が悪いだけだから……」


 彼はひどく気まずそうだった。沙織の手からプリントを受け取ると、すぐにでも扉を閉めようとした。だが、そこで、家の中から誰かが飛び出してきた。


「沙織! 沙織なのね!」


 それは智子だった。だが、いつもとは様子がまるで違っていた。パジャマ姿だったが、五日前に比べて、体が一回り太っているように見えた。顔もパンパンで、それなのに、目の下にはくまができていた。瞳はどんよりとにごっていて、髪はぼさぼさだ。


「ねえ、沙織。あなた何か食べるもの、持ってない?」


 智子はうつろな目つきのまま、沙織に近づく。「どうしたの、智子?」沙織はびっくりして、思わず後ろに下がった。


「どうしたのじゃないわよ。お母さんもお父さんも、ひどいのよ。私がおなかすいてるのわかってて、何も食べ物くれないの」

「え、でも……智子って具合悪くて学校休んでたんじゃ」

「そりゃ、おなかがすいてちゃ、学校に行くどころじゃないじゃない」


 智子は眼を見開き、口を大きく開けた。その口からぽたぽたとよだれが滴った。


「智子、どうしたの? なんだかおかしいよ?」


 沙織は智子のただならぬ気配に恐怖を感じた。と、そこで、彼女達の前に智子の母親が出てきて、智子の腕を引っ張り、強引に家の中に引っ張り込んで行った。


 沙織はその一瞬、智子の目が赤く光っているように見えた。なんだろう? 智子、いったいどうしちゃったんだろう?


「悪いね。わざわざ来てもらったのに、あいつがあんな状態で……」


 父親はすっかり途方に暮れているようだった。


「智子さん、何かの病気なんですか?」

「ああ、そうとしか考えられないよ。ついこの間から、急に家の中にある食べ物を手当たり次第に食べ始めたんだ。それで、あんな状態に……。医者には連れて行こうとしたんだけど、外には出たがらないんだ。それで、家の中で、食い物をよこせって暴れて……」


 心の病気だろうか。智子、ついこの間まで頑張ってダイエットしてたのに……。沙織はショックで頭がくらくらした。


「だ、大丈夫だよ。こういうのはきっと、思春期によくある一時的なもんだよ」

「そうですね。きっとすぐによくなりますよ」


 沙織はつとめて明るく言うと、その場を後にし、マンションを出て家路についた。胸の中は憂鬱な気持ちでいっぱいで、その足取りは重かった。


 と、そんなとき、「ちょっと、そこの姉ちゃん」と、道路の方から声をかけられた。振り返ると、男がバイクにまたがっていた。白いライダージャケットを着ており、フルフェイスのヘルメットを被っていて顔は見えない。


「このへんの子だよな? 道、聞きたいんだけど、いいか?」


 と、男は沙織の返事も待たずに、ポケットから小さなメモ紙を取り出し、沙織に見せた。それはこのへんの地図だった。目的地と思しき場所はカフェ「アンブローシア」だ。


「ああ、その店だったらここからすぐですよ」

「マジか?」

「っていうか、この地図、すごくわかりやすいのに、なんで道に迷って……」

「か、勘違いするなよ。俺は別に方向音痴とかそういうんじゃないんだからな。ただちょっと確認しただけだ。確認」

「はあ……」


 方向音痴なんだ。この人、バイク乗りのくせに方向音痴なんだ。


「じゃあ、あくまで確認のため道を言っておきますね」


 沙織は男に道を教えた。男は「サンキュ」とだけ言って、バイクを走らせ去って行った。


 あの人、あの店に何か用があるのかな? それとも誰かと待ち合わせ? 沙織は歩き出しながらぼんやり思った。そして再び、智子のことを思い出し、暗い気持ちになった。


 大丈夫、きっとすぐによくなるに決まってる……。沙織は、智子の父親に言った言葉を胸の中で繰り返すほか、なかった。


 だが、沙織の願いとは裏腹に、その晩、葉山家はひどい惨劇に襲われた。その家に住む夫婦が何者かに殺され、彼らの一人娘が突如として行方不明となったのだ。夫婦の死体には、無数の、何かの動物にかじられたような跡があった。

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