1章「瘴鬼と残月」 その2
さて、そのころ。とある家のキッチンでは、一人の少女が苦渋の表情を浮かべていた。
「これを肉じゃがと呼んでいいものだろうか……」
少女はコンロの上におかれた鍋のふたを取り、中身をじっと見つめた。見たところ十四歳くらいの、黒く長い髪をした美しい少女だ。肌は雪のような白さで、長いまつげに縁取られた瞳は深い紺色だった。身につけているものは、男物の白いカッターシャツとショーツだけだった。当然シャツのサイズはあっておらず、その裾は彼女のむきだしの太もものなかばくらいまで垂れている。
そして、彼女の額の中央、髪の生え際のあたりには小さな突起があった。そう、彼女こそは鬼の娘、ルカだった。
「やはり、もう一度作りなおした方がいいか」
ルカは換気扇のすぐ隣にある時計をちらりと見た。午後五時を回ったところだ。華伝が家に帰ってくるまでまだ時間がある。作り直すのは無理でも、とりあえず、この鍋の中にある何だかよくわからない物体だけは片づけておかないと、まずい。いろんな意味で、まずい。彼女の、鬼としての威厳や尊厳に関わってしまう。
だが、そう思って、鍋に手をかけた瞬間、「ルカ、それなんですか?」と後ろから声がした。はっとして振り返ると、キッチンの入口に華伝が立っていた。いつもの、黒いタートルネックのシャツとレザーパンツという格好で。
「な、なんでお前がここにいるのだ!」
びっくりして、文字通り飛びあがってしまうルカだった。
「なんでって、そりゃ、僕の家ですから」
「そうではない。帰ってくるのなら、ただいまと言って、ちゃんと物音を立てて入って来い。勝手に私の背後を取るな!」
「はは。ルカも知ってるでしょう。人の家にこっそり忍び込むのは僕の得意技の一つですよ」
「自分の家でそれをやるな!」
さわやかな笑顔で、さらっと犯罪スキル自慢する彼に、思わず声を張り上げてしまうルカだった。
「それに、帰ってくるのがいくらなんでも早すぎるだろう。店はどうした」
「今日は暇なんで早めにあがったんです」
華伝はそれだけ言うと、つかつかと鍋のほうに歩いてきた。ルカはまたしてもびっくりして、あわててコンロの前から離れ、キッチンの奥の食器棚に背中をぴったりくっつけた。
「ま、前から言っているだろう。不用意に私に近づくなと。私に殺されたいのか!」
「大丈夫ですよ。僕だってちゃんと対策してるんですから」
華伝はそんな彼女に微笑むと、シャツの袖を少しめくって裏地を見せた。そこには何か小さな、細長いシールのようなものがいくつも貼られているようだった。
「なんだ、それは?」
「鬼除けのお札です。叔父さんに用意してもらったんですよ」
彼はその一枚をシャツから取り、ルカの前に差し出した。鬼除けの札とはいったい何だろう? ルカはすぐにそれに触れた――と、そのとたん、体に電気が走ったような、びりびりとした嫌な感覚に襲われた。あわてて手をひっこめた。
「な、るほど……鬼の私が触れると、しびれるようだな……」
目を白黒させながら、ルカは言う。華伝はそんな彼女を見てまた笑った。
「だが、そんなものを体に貼り付けていて、お前は大丈夫なのか?」
「ええ。僕はしょせん瘴鬼ですから。このお札は効かないんですよ」
「そ、そうか……」
そんな便利な札があるとはな。確かに、これがあれば、彼の近くにいても、彼を殺さずに済むかもしれない――殺す前に正気に戻れるかもしれない。ルカは少しほっとした。
「で、この鍋の中身は一体何なんですか、ルカ?」
「それはそのう……創作料理だ」
さすがに肉じゃがを作ろうとして、なんだかよくわからないものができたとは言えなかった。
「なるほど、晩御飯を作ってくれたんですね――僕のために!」
華伝はたちまち嬉しそうに目を輝かせた。そして、もう一度「僕のために!」と繰り返した。ルカはなんだか顔が熱くなり、食器棚に背中をくっつけたまま腰を落とし、膝を抱えて縮こまった。
「きょ、今日はお前が瘴鬼を狩ってきてくれたおかげで、体調もいいしな。たまにはお前に何かしてやろうと思っただけだ……」
「本当ですか? うれしいなあ」
華伝は心底幸せそうな顔をしている。その鍋の中身を見て、なぜそんな顔になるのだろう。ルカは不思議で、やはりとても恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
「で、でも、いつもお前がやっているようにはいかなくてな。どうにも変なものが出来てしまった。それはさすがに食えるものではない。見なかったことにして、捨ててくれ――」
「これを捨てる? とんでもない!」
とたんに、華伝は声高に叫んだ。
「しかし、まずいだろう、それは」
「うーん、確かに味はまだ未完成ですね}
華伝は小皿とおたまで鍋の中身を味見をして、少し険しい顔になった。が、それはほんの一瞬だった。すぐに彼は「もっと味を足せば美味しくなると思います」と、再びにこやかな表情で言った。
「いや、いくらお前でも、それをどうこうできるとは思えんぞ」
「できます。というか、やってもいいですか?」
「ああ、かまわんが……」
「じゃあ、ルカは向こうで待っててください。いつもみたいに部屋に戻っちゃだめですよ。今日はこのまま一緒に晩御飯にしましょう。ちょっと早いですけどね」
ルカは言われるがまま、キッチンを出て居間に行った。カーペットの上に座卓と座布団を並べただけの小さな洋室だ。その座布団の一つに腰を落として、彼女は夕食が出来上がるのを待った。内心は半信半疑だった。華伝はああ言ったものの、あの鍋の中身がちゃんと食べられるようになるとはとうてい思えなかった。
やがて、ご飯とみそ汁とサラダと、彼女が作ったなんだかよくわからない煮物が皿に盛られて運ばれてきた。見た目は混沌のままだ。においは……あまりしなくなっているような? 華伝と一緒に席について、同じタイミングで箸を取ったところで、彼女は勇気を出して、彼より先にそれを口に運んだ。
「……これは」
びっくりした。特別おいしくはない、むしろ微妙な味だが、まずさが徹底的に消えている。ちゃんと食べられる味になっている!
「お前はいったい何をしたのだ?」
「何って、調味料を少し足しただけですよ」
華伝は彼女同様に謎の煮物を口に運んだ。そして、「今日はルカの手作り料理が食べられるなんてなあ」と、また幸せそうな顔になった。
「あ、でも、僕がちょっと手を加えたから、これは二人の共同作業ということに?」
「まあ、そうだな……」
「二人の共同作業かあ……なんだか、とてもいい響きですね」
にやにやして、次第にだらしない顔になっていく。ルカはこういう彼を目の当たりにするたびに、ちょっと不思議に思う。黙っていれば、あるいは表情を固くしてクールにすましていれば、彼はかなりの美形なのだが、彼自身はあまりそういう自分の風貌に頓着してないようで、笑った顔はいつも無邪気で、少し子供っぽい。二十一の男としてそれはどうなのだろう。
「それに、この白いごはんも、ルカの顔を見ながら食べると、いつもの三倍くらいは美味しい気がします」
「わ、私は魔法のふりかけではないぞ……」
さすがに恥ずかしくなって、顔がまた熱くなってしまう。
だが、同時にそんな彼の言葉や笑顔が、彼女はとてもうれしかった。彼女も彼とまったく同じ気持ちだった。彼と一緒に食べる料理は、いつもよりずっと美味しい。
もしかすると、これからもずっと彼と一緒に食事をしていいのかもしれない。鬼除けの札もあるし、今の自分達はすぐ近くにいても、問題なく過ごせている。そう、今まで変に身構えていただけなのではないだろうか……。ルカは彼と幸せな気持ちで談笑し合いながら、ぼんやり思った。彼はいつも電話で話すよりは、饒舌だった。食事をしながら、昨日狩った瘴鬼について、弓雅から聞いたことを彼女に話した。なんでも、この近隣で、本物の鬼が人を瘴鬼に変え続けている可能性が高いそうで、昨晩華伝が屠った女も、それに瘴鬼にされた一人に過ぎないらしい。
「瘴鬼ならともかく、本物の鬼が出てくると、僕はお手上げです。叔父さんは近いうちに応援を呼ぶと言っていました」
「そうだな。お前はすぐにこの件から手を引いた方がいいだろう」
瘴鬼である華伝がもし本物の鬼に出会ってしまったら……。ルカはそれを想像した途端、ぞっとした。彼は絶対に本物の鬼には勝てない。実のところ、自分のために、日々、瘴鬼を狩り続けていることすら、彼女は心配でしょうがなかった。
そう、人を食えない鬼、残月である彼女は、本来ならばその呪いが発現した後すぐに死んでいる身だった。鬼が生きて行くのに必要な、人間の魂生気を受け付けない体質なのだ。彼女がこうして生きながらえているのは、華伝が時折外から持ち帰ってくる、瘴鬼の魂生気のおかげだった。それは本来の鬼の糧ではないが、人間の魂生気の代替品として、残月の鬼を生かすことができた。
そして、そんな華伝に瘴鬼の情報を提供しているのが、彼の義理の叔父、瑞島弓雅だった。彼は表向き、さびれたカフェのマスターをしているが、裏では、鬼や瘴鬼絡みの事件を退治屋などに紹介する、エージェントだった。さまざまな製薬会社や研究施設とも通じているらしく、鬼絡みの薬も取り扱っており、警察にも顔が利くようで、瘴鬼や鬼による犯罪が起こった際には頼りにされることも多いという。今回の事件も、瘴鬼の女による連続殺人事件だったので、華伝が現場に派遣されたというわけだった。
「でも、よくわからない話です。事件の黒幕の鬼は、むやみに瘴鬼を増やして何がしたいんでしょうね。人間だって鬼にやられっぱなしってわけでもないし、今時の鬼は何事も目立たずにやるのが主流なのに」
華伝は頬杖をついて、首をかしげた。見ると、彼はすでに料理を全てたいらげていた。ルカのほうはまだ半分ほど残っていた。彼に見とれて、箸の進みが遅かったせいだった。
「ルカ、もしかして量が多かったですか? 食べきれないなら、僕が……」
「いや、お前が食べるのが速いだけだ」
さすがに本当のことは言えない彼女だった。華伝は「そうですね、すみません」と、笑った。そして、手持無沙汰になったせいか、「お茶でも淹れてきます」と、ふと立ちあがり、キッチンのほうに向かった。
だが、その瞬間、ルカの鬼としての本能が蠢いた。彼の背中は無防備そのものだった。突如沸き上がった内なる衝動に駆られるがまま、彼女は立ちあがり、彼を背後から襲った。牙を立てるべきは、その、タートルネックの襟からわずかに露出した首筋だ――。
「ルカ!」
気がつくと、彼女は彼に手首をつかまれていた。噛みつかれる寸前で、彼は振り返り、彼女を制止したようだった。
「あ……」
またやってしまった。彼を襲ってしまった。殺そうとしてしまった。今日は大丈夫だと思っていたのに……。
「す、すまない、華伝……」
彼女はたちまち真っ赤になり、彼の手を振りほどくと、すぐに二階の自室に駆け込んだ。どうして、自分は我慢できないのだろう。恥ずかしさと、自己嫌悪の気持ちで胸がいっぱいになった。涙がぽろぽろこぼれてきた。
そう、鬼である彼女には、鬼の女特有の異性への衝動があった。それは、愛する男の魂生気を吸いたいというものだった。鬼同士ではそれは極めて当たり前の求愛行動だった。鬼の男は、鬼の女に多少かじられて魂生気を吸われても死ぬことはなかった。
だが、相手がただの人間や瘴鬼では無事では済まない。普通は、鬼の女にかじられた瞬間、死んでしまう。瘴鬼である華伝とて、それは例外ではない。だから、ルカは彼の前にいる間は、自分の衝動を抑えなくてはいけない。
それは彼女にとってはとても難しいことだった。彼への気持ちが強まるほどに、鬼の女としての衝動は体のうちから沸き上がって来た。だから、ふだん、彼女は家にいるときでも、できるだけ彼と顔を合わせないようにしていた。ずっと部屋に閉じこもるようにしていた。
どうして自分はいつもこうなのだろう。今日はせっかく一緒に食事ができたのに……。自室に入ったところで、ルカはドアに背中をつけて、カーペットの上にへたりこみ、膝を抱えた。部屋に灯りは付いていなかったが、窓の外から夕暮れ時の弱い陽光が差し込んでいた。昨晩までは散らかり放題の部屋だったのに、今はきちんと片づけられている。ルカが薬で熟睡している間に、華伝が掃除をしたのだった。
彼は自分のために本当によくしてくれている。なのに、自分は何も彼に与えてあげられない。簡単な料理ですら、ちゃんと作ってあげられなかった。ルカはやはり涙をおさえることができなかった。
と、そのとき、ベッドのわきに置かれてる電話機が鳴った。華伝が一階からかけているのだろう。ふだん直接顔を合わせないようにしている二人は、家にいる時はいつもこの内線電話を使って話をしていた。
ルカはその電話を取らなかった。今声を聞かれたら、泣いているのがばれてしまうからだ。だが、電話は延々と鳴り続けた。昔から、彼は変にしつこいところがあった。さすがに電話に出ないわけにはいかなかった。
「ルカ、残ったご飯はどうしますか?」
電話に出たとたん、開口一番に言われたのがこの言葉だった。ルカはさすがに拍子抜けしてしまった。
「お前はさっき、私に殺されかけたのだぞ?」
「そうですね。僕もちょっと油断してました」
彼の声は明るい。涙声のルカとはまったく対照的だ。
「でも、ちゃんとガードできたでしょう? 僕だって、一応は鍛えてるんです。そうそうルカにやられたりしませんよ。なんてったって、あなたは本物の鬼とは名ばかりで、何の能力もない、実に弱っちい、残月ですからね。たぶん、瘴鬼である僕の方が強いんじゃないかな」
「なんだその言い方は」
からかうような口調に、思わずむっとしてしまうルカだった。華伝は、そんな彼女の反応に笑った。
「弱っちいのが嫌なら、ご飯くらいはちゃんと全部食べてくださいってことですよ。僕が言いたいのは」
「そうだな……」
言われてみれば、確かにまだ食べ足りない気がする。というか、彼の明るい声を聞いたとたん、急に腹が減って来た。
「じゃあ、残った分は今からそっちに持っていきますね。いつもみたいに部屋の前に置いておきます」
「ああ、頼む」
「お代りが欲しいのなら、そのときは言ってください。また何か作りますから――あ、それと」
と、彼はそこではっと思い出したように彼女に尋ねた。「ところで、なんで今日は僕のシャツなんか着ていたんですか?」
「べ、別にいいだろう、これぐらい」
ルカはさっきとは違う理由でまた顔が熱くなった。本当は彼が帰ってくる前にちゃんとした格好に着替えるつもりだった。
「いや、よくないですよ。どうせ下はパンツ一枚だったんでしょう。そんな恰好で目の前をうろうろされると、僕だって目のやり場に困りますよ」
華伝はちょっと照れ臭そうな声だった。ルカもますます恥ずかしくなり、「お前が無駄に早く帰ってくるのが悪いのだぞ!」と、思わず声を荒げた。
「ルカ、まさか、僕が家にいない時はいつもあんな恰好してるんですか?」
「きょ、今日はたまたまだ……。なんとなく、その、なんとなく、お前が普段着ているものを身につけてみたくなったのだ……」
と、正直に白状したところで、彼女はいよいよ恥ずかしさに耐えられなくなった。「じゃあ、後は頼む」とだけ言って、一方的に電話を切ってしまった。
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